普通の生徒
翌朝。
私が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの凛月さんの姿はもうなかった。
リビングに出ると、彼女はすでに完璧に着替えを済ませ、テーブルの上には温かい朝食が二人分用意されている。
その完璧な生活能力に、私は静かに感嘆した。
「…おはよう、しおりさん」
「おはようございます、凛月さん」
「よく眠れたかしら?…ほら、さっさと着替えなさい。今日は私の学校に体験入学するのですから。制服、そこにあるわよ」
彼女が指差した先には、ハンガーにかけられた見慣れない制服があった。五月雨高校の、上品でしかしどこか冷たい印象を与える、濃紺のブレザーだ。
それに袖を通すのは、少しだけ奇妙な気分だった。
まるで、スパイが敵地に潜入する時のように。
五月雨高校の校門は、第五中学とは比べ物にならないほど大きく、そして荘厳だった。
私と凛月さんが校門をくぐると、あちこちから視線が突き刺さるのが分かる。
「おい、あれって…」「小笠原さんの隣にいる子…」「まさか、噂の…」
その、ひそやかな囁き声。
昇降口で私たちを待っていたのは、猛先輩だった。
「よお、二人とも。待ってたぜ」
高校の制服が様になっていて、一年前よりもさらにたくましく見える。
彼は私の姿を見ると、ニヤリと笑った。
「その制服、結構似合ってんじゃねえか、しおり」
「…あたりまえです。サイズが合っているのですから」
私は、そっぽを向きながら答えた。
凛月さんたちと別れ、教頭先生に案内されたのは、一年生の特進クラス。
教室に一歩足を踏み入れた瞬間、それまで賑やかだった生徒たちの視線が、一斉に私に注がれたのが分かった。
好奇、そして値踏みするような視線。
すでに完璧に出来上がっている彼らの輪の中に、私はただ一人、ぽつんと取り残されている。
案内された席に着くと、すぐに授業開始のチャイムが鳴った。
入ってきたのは初老の、柔和な雰囲気の数学教師だった。
彼は私の存在を確認すると、にこやかに、しかしどこまでも丁寧に会釈をした。
校長から話が行っているのだろう。私はただの転校生ではない。「特別見学者」なのだ。
授業は、高等数学。
先生が黒板に書き出したのは、高学年レベルの難解な数式だった。
その流れるような解説。そして、クラスのほとんどの生徒が、その速度に食らいつくようについていけているようだった。
(…面白い)
私はその光景を、静かに観測していた。
かつての私なら、ただ「非効率だ」と切り捨てていただろう。
しかし、今の私には、その必死に食らいつこうとする彼らの姿が、どこか眩しく、そして愛おしくさえ見えた。
授業が終わり、昼休み。
私は一人、席で本を読もうとしていた。
その時だった。
数人の男女が、おずおずと私の机へとやってきたのは。
その中心にいる快活そうな男子生徒が、代表して私に話しかけてきた。
「…あの。第五中学から来た、静寂さんだよね?」
「はい。そうですが」
「俺、中学の時卓球やっててさ!君の噂、聞いてるよ!『予測不能の魔女』だって!」
その、あまりにもまっすぐな言葉。
私は少しだけ驚いたが、静かに微笑んで答えた。
「…ただの異名です。私は、ただの卓球選手ですよ」
私のその穏やかな反応に、彼らは少しだけ安心したようだった。
「さっきの数学、分かった?俺たち、全然ちんぷんかんぷんでさ」
「ええ。まあ、ある程度は」
「マジで!?…なあ、もしよかったら、放課後少しだけ教えてもらえないかな?」
その、あまりにも無邪気な申し出。
彼らの瞳には、私への純粋な好奇心と尊敬の色が浮かんでいる。
私は、その光を心地よいと感じていた。
私は、くすりと笑って答えた。
「…いいですよ。ただし、一つ条件があります」
「え?」
「放課後、私もあなたたちの卓球部にお邪魔します。…その練習相手になってくださいね」
その私の言葉に、彼らの顔がぱあっと輝いた。
「マジで!?やったー!」
その輪の中心で、私は笑っていた。
心の底から。
そうだ、私はもう、新しい世界で、新しい人と、こうして「対話」を始めることもできるのだ。
その穏やかで、そして温かい昼休み。
それは、私が初めて経験する「普通の生徒」としての時間だったのかもしれない。
その、ささやかな幸福を、私はただじっと噛み締めていた。




