表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異端の白球使い  作者: R.D
五月雨高校編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

647/694

普通の生徒

 翌朝。


 私が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの凛月さんの姿はもうなかった。


 リビングに出ると、彼女はすでに完璧に着替えを済ませ、テーブルの上には温かい朝食が二人分用意されている。


 その完璧な生活能力に、私は静かに感嘆した。


「…おはよう、しおりさん」


「おはようございます、凛月さん」


「よく眠れたかしら?…ほら、さっさと着替えなさい。今日は私の学校に体験入学するのですから。制服、そこにあるわよ」


 彼女が指差した先には、ハンガーにかけられた見慣れない制服があった。五月雨高校の、上品でしかしどこか冷たい印象を与える、濃紺のブレザーだ。


 それに袖を通すのは、少しだけ奇妙な気分だった。


 まるで、スパイが敵地に潜入する時のように。


 五月雨高校の校門は、第五中学とは比べ物にならないほど大きく、そして荘厳だった。


 私と凛月さんが校門をくぐると、あちこちから視線が突き刺さるのが分かる。


「おい、あれって…」「小笠原さんの隣にいる子…」「まさか、噂の…」


 その、ひそやかな囁き声。


 昇降口で私たちを待っていたのは、猛先輩だった。


「よお、二人とも。待ってたぜ」


 高校の制服が様になっていて、一年前よりもさらにたくましく見える。


 彼は私の姿を見ると、ニヤリと笑った。


「その制服、結構似合ってんじゃねえか、しおり」


「…あたりまえです。サイズが合っているのですから」


 私は、そっぽを向きながら答えた。


 凛月さんたちと別れ、教頭先生に案内されたのは、一年生の特進クラス。


 教室に一歩足を踏み入れた瞬間、それまで賑やかだった生徒たちの視線が、一斉に私に注がれたのが分かった。


 好奇、そして値踏みするような視線。


 すでに完璧に出来上がっている彼らの輪の中に、私はただ一人、ぽつんと取り残されている。


 案内された席に着くと、すぐに授業開始のチャイムが鳴った。


 入ってきたのは初老の、柔和な雰囲気の数学教師だった。


 彼は私の存在を確認すると、にこやかに、しかしどこまでも丁寧に会釈をした。


 校長から話が行っているのだろう。私はただの転校生ではない。「特別見学者」なのだ。


 授業は、高等数学。


 先生が黒板に書き出したのは、高学年レベルの難解な数式だった。


 その流れるような解説。そして、クラスのほとんどの生徒が、その速度に食らいつくようについていけているようだった。


(…面白い)


 私はその光景を、静かに観測していた。


 かつての私なら、ただ「非効率だ」と切り捨てていただろう。


 しかし、今の私には、その必死に食らいつこうとする彼らの姿が、どこか眩しく、そして愛おしくさえ見えた。


 授業が終わり、昼休み。


 私は一人、席で本を読もうとしていた。


 その時だった。


 数人の男女が、おずおずと私の机へとやってきたのは。


 その中心にいる快活そうな男子生徒が、代表して私に話しかけてきた。


「…あの。第五中学から来た、静寂さんだよね?」


「はい。そうですが」


「俺、中学の時卓球やっててさ!君の噂、聞いてるよ!『予測不能の魔女』だって!」


 その、あまりにもまっすぐな言葉。


 私は少しだけ驚いたが、静かに微笑んで答えた。


「…ただの異名です。私は、ただの卓球選手ですよ」


 私のその穏やかな反応に、彼らは少しだけ安心したようだった。


「さっきの数学、分かった?俺たち、全然ちんぷんかんぷんでさ」


「ええ。まあ、ある程度は」


「マジで!?…なあ、もしよかったら、放課後少しだけ教えてもらえないかな?」


 その、あまりにも無邪気な申し出。


 彼らの瞳には、私への純粋な好奇心と尊敬の色が浮かんでいる。


 私は、その光を心地よいと感じていた。


 私は、くすりと笑って答えた。


「…いいですよ。ただし、一つ条件があります」


「え?」


「放課後、私もあなたたちの卓球部にお邪魔します。…その練習相手になってくださいね」


 その私の言葉に、彼らの顔がぱあっと輝いた。


「マジで!?やったー!」


 その輪の中心で、私は笑っていた。


 心の底から。


 そうだ、私はもう、新しい世界で、新しい人と、こうして「対話」を始めることもできるのだ。


 その穏やかで、そして温かい昼休み。


 それは、私が初めて経験する「普通の生徒」としての時間だったのかもしれない。


 その、ささやかな幸福を、私はただじっと噛み締めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ