研究ノート
私たちは、何も話さなかった。
ただ静かに食事を進める。
しかし、その沈黙は気まずいものではなかった。
互いの魂の孤独を理解し合った、二人の戦友の、静かな晩餐だった。
食事が終わると、凛月さんは当たり前のように二人分の食器を手に取り、キッチンへと向かった。
「…私がやります」と私が言うよりも早く。
「いいから座ってなさい。病人でしょう、あなたは」
そのぶっきらぼうな言葉の裏に、不器用な優しさが隠れていることを、今の私にはもう分かっていた。
一人ダイニングテーブルに残された私は、改めてこの部屋を見渡す。
そして、壁際の小さな棚の上に無造作に置かれた、一冊のノートが目に留まった。
黒いハードカバーの、何の変哲もないノート。
しかし、その背表紙にテプラで貼られた白いラベルには、私のよく知る名前が書かれていた。
『静寂しおり - 分析レポート』
(…これは…)
見てはいけない。
そう、頭では分かっているのに。
私の手は、無意識にそのノートへと伸びていた。
ページを開いた瞬間、私は息をのんだ。
そこに書かれていたのは、もはや「分析」などという生易しいものではなかった。
それは、**私という人間そのものの、完璧な「解剖図」**だった。
中学一年時の全国大会での、私の全ての試合の詳細なスコア。
サーブのコース別使用確率。
ラリーの展開ごとの打球選択の癖。
そして、私がラケットを反転させるタイミングのパターン分析まで。
びっしりと几帳面な文字で埋め尽くされたページ。
それは、彼女が、あの全国大会で私に敗北したあの日からずっと、来る日も来る日も、ただひたすらに私を「研究」し続けてきた、その執念の結晶だった。
この孤独な城の中で、たった一人。
私という名の亡霊と、戦い続けてきたのだ。
その、あまりにも凄まじい熱量に、私は畏怖さえ感じた。
しかし、その畏怖はすぐに、全く別の感情へと変わっていった。
私の胸を締め付ける、冷たい「罪悪感」だった。
私は、自分の手と足を見下ろす。
リハビリを経て、ようやく動くようにはなった。
しかし、その力も持久力も、全盛期には遠く及ばない。
(…このノートに書かれている『怪物』は、もうここにはいない)
(今の私では、この人の二年間近くの努力と執念に、応えることができない)
彼女は、私を倒すために全てを捧げてきた。
しかし、その私が、もはや彼女が想定していた私ではない。
その事実は、彼女のこの二年間の全てを裏切る行為ではないのか。
その時だった。
「…何、見ているのよ」
洗い物を終えた凛月さんが、私の背後に立っていた。
その声は静かだったが、どこか緊張しているようだった。
私はゆっくりと、彼女の方を振り返る。
そのノートを、手にしたまま。
私の瞳に宿る、そのあまりにも複雑な感情の意味を、彼女はまだ知らなかった。




