傷痕の目
体育館での激しい消耗。
私はれいかさんに支えられながらタクシーに乗り込み、病院へと向かっていた。
今日は、週に一度の富永先生とのカウンセリングの日。
練習が終わってから行く予定だったのだ。
本当は、あかねさんが「私が付き添う!」と言って聞かなかった。
彼女がまだれいかさんを警戒しているのは、痛いほど分かっていたから。
でも、私はそれを断った。
「あなたは部長でしょう?部の後片付けをお願いします」と。
れいかさんに付き添いを頼んだのは、私たちが抱えるこの微妙な距離感を、何とかしたいという気持ちが少しだけあったからかもしれない。
富永先生の診察室。
いつものように、穏やかな空気が流れている。
れいかさんは、私の少し後ろの椅子に、緊張した面持ちで座っていた。
一通り私の体調や学校での様子についての話が終わった後。
私は意を決して、ずっと心の中にあった疑問を先生にぶつけた。
「…先生。私のこの『目』は、一体何なのでしょうか」
「目、かい?」
「はい。人の心の動きや、相手の思考が、まるでデータのように頭の中に流れ込んでくる、この感覚です」
私は、自分の考えを話した。
「夢の中で一つになったもう一人の私から受け継いだ力なのだと思っています。でも、その成り立ちがどこか薄暗いものであるという感覚が拭えません」
私のその言葉を、富永先生は静かに聞いていた。
そして、彼はいつものように優しい声で語り始めた。
それは、難しい物語を子供に読み聞かせるような声だった。
「…しおり君。森の中に一匹で暮らす、小動物を想像してみてくれるかい」
「…はい」
「その森には狼や鷹といった、たくさんの敵がいる。その小さな動物が生き延びるためには、どうすればいいかな?」
「…敵に気づかれる前に、敵に気づくことです」
「その通りだ」と、先生は頷いた。
「その動物は生きるために、聴覚や嗅覚を極限まで研ぎ澄ませるだろう。ほんの些細な物音、風の匂いの変化から、危険を察知するためにね」
彼はそこで一度言葉を切り、そして私の瞳を真っ直ぐに見た。
「君の子供の頃はどうだったかな。君の家という『森』は、君にとって安全な場所だっただろうか」
その言葉。
私の頭の中で、あの薄暗いリビングの光景がフラッシュバックする。
「君は、生き延びなければならなかった」と、先生は続けた。
「お父様やお母様のその日の機嫌を常に察知し、嵐が来る前に身を隠さなければならなかった。そのために君の心は必死だったんだ。相手の眉間の皺、声のトーン、ため息の深さ。その全ての情報から危険を予測する能力を、極限まで発達させた」
「君のその素晴らしい『観察眼』は、卓球のために生まれたのではないんだよ、しおり君」
「それは、君があの地獄を生き延びるために身につけた、健気で、そしてあまりにも悲しい、生存戦略だったんだ」
その、あまりにも優しく、そして残酷な真実の宣告。
私は、何も言えなかった。
ただ、静かにその言葉を受け止める。
(…そうか。やはり、そうだったのか)
(これは才能なんかじゃない。私の傷跡、そのものだったんだ)
その時。
私の背後で、息をのむ音がした。
振り返ると、そこには両手で口を覆い、その美しい瞳を驚愕と恐怖で見開いたまま、わなわなと震えるれいかさんの姿があった。
彼女は、今、初めて知ったのだ。
私が背負ってきた、本当の地獄のその一片を。
彼女が嫉嫉し、そして憎んだ少女の、そのあまりにも悲しい、真実の姿を。
彼女は、声も出せずに、ただ静かに涙を流していた。




