優勢か劣勢か
ネットの向こう側で、橘コーチが初めて狼狽の色を浮かべたのを、私の目は確かに捉えていた。
この戦いの主導権は、完全に私が握ったのだ、と。
サーブ権はまだ私にある。二本目だ。
私はボールを手に取り、そしてあえてゆっくりと、ラケットの黒い面――アンチラバーを彼に見せびらかすように構えた。
そして、ボールを高く、高くトスする。
体育館の全ての視線が、その一点に集まる。
落下してくるボール。
そのタイミングに合わせ、私の手首が蝶のように舞った。
ラケットを、一回転させる。
私が編み出した、新しい幻惑の技術。
その華麗で、しかしあまりにも異質な動き。
橘コーチの思考が、迷宮へと迷い込むのが分かった。
彼の頭の中は今、いくつもの可能性で飽和しているはずだ。
(…来た。ラケットの回転)
(アンチを見せて、そこからの回転…これはブラフか?)
(いや待て。彼女は私の思考を読んでいる。ならば、このラケット反転は、その裏をかいた本命か?)
(違う。その思考さえも読まれているとしたら…!?)
彼の、そのコンマ数秒の思考のフリーズ。
私にとっては、十分すぎる時間だった。
私が放ったのは、アンチラバーで打った、ただのナックルショートサーブ。
しかし彼の頭脳は、そのあまりにも単純なボールを、強烈な「下回転」であると誤認してしまった。
彼はそのボールを持ち上げるために、思いっきりドライブを放つ!
だが、回転のないボールが持ち上がるはずもない。
彼のラケットの下をすり抜けるように、ボールは無情にもネットへと突き刺さった。
静寂 5 - 1 橘
体育館が、どよめきからため息へと変わる。
後輩たちは、もはや何が起きているのか理解できていないだろう。
ただ、絶対的な王者が、なすすべもなく翻弄されているという事実だけを、目の当たりにして。
私は静かに、彼を見つめた。
彼の額に、大粒の汗が浮かんでいる。
その驚愕に満ちた顔と、私の氷のように冷たい視線が交差した。
(…あなたのその完璧な頭脳さえも、私のこの、勝利への渇望の前では、無力だったということ)
サーブ権が、橘コーチに移る。
私は一度コートを離れ、あかねさんが差し出してくれたドリンクボトルを受け取った。
乾ききった喉を潤し、タオルで額の汗を拭う。
しかし、そのタオルの下で、また別の冷たい汗がじわりと滲み出てくるのが分かった。
(…来る)
そうだ。相手が何の邪魔も受けずに、自らの100%の力を発揮できる唯一の瞬間。
それがサーブ権なのだ。
だからこそ、相手のサーブで得点することが重要になる。
私は無言でタオルとボトルをあかねに返し、そして深く息を吸い込みながら構え直した。
橘コーチの瞳には、もう驚愕の色はない。
そこにあるのは、獲物の弱点を完全に見つけ出した、ハンターのような冷徹な光だけ。
彼が放ったサーブ。
それはYGサーブのような奇策ではなかった。
ただ、ひたすらに速く、そして重い回転のかかった弾丸。
私の体を容赦なく抉るような、一撃。
私は、それをドライブで返す。
ラリーが始まった瞬間、私は理解した。
盤面が、完全に変わってしまった、と。
速い。
速い、速い、速い!
彼の打球は、一球ごとにその速度と重みを増していく。
私の思考が追いつかない。
分析する暇がない。
ただ、目の前に飛んでくる白い閃光に、反射的に反応するのが精一杯だ。
(…まずい。これは、完全に相手のペースだ)
ここで勝負に出なければ、この怒涛のラッシュに押し潰される。
しかし、その勝負手を打つための僅かな「時間」さえ、彼は私に与えてくれない。
(…これしか、ない…!)
私は追い詰められ、そして賭けに出た。
彼の強打が返ってくる、その瞬間。
ラケットをひらりと半回転させ、そしてアンチラバーでドライブを放つ!
この試合で、一度彼の思考を停止させた魔球。
しかし。
彼の瞳は、笑っていた。
「待っていた」と、言わんばかりに。
彼は私のその苦し紛れの一手を、完全に読み切っていたのだ。
彼は、その力なく沈んでくるナックルボールに対し、完璧なタイミングで踏み込み、そして思いっきりスマッシュを叩き込んできた!
轟音。
ボールは、私のラケットに当たり、そのあまりの威力に弾き飛ばされ、ボールは体育館の天井へと高く舞い上がった。
静寂 5 - 2 橘
私は、荒い息を吐きながらラケットを握り直した。
そして、決意する。
(…やはり、見切られていたか)
(このレベルの相手には、一度見せた手品は通用しない)
(もっと早い段階で、勝負手を打たなければ…!)
これが、世界レベルの選手……!
まだ始まったばかりなのに、胸が熱くなるのを感じる。
私は、この、恐るべき「コーチ」との対話を通して、何を学ぶのだろうか。




