氷の独白
私は、ボールを高くトスした。
その瞳には、何の光も宿っていない。
ただ勝負を賭ける、勝負師の目がそこにはあった。
時間が、引き延ばされるような感覚。
落下してくるボール。
振りかぶるラケット。
その、コンマ数秒の永遠の中で、私の思考は走馬灯のように、この一年で出会った人間たちの顔を思い浮かべていた。
部長。
どこまでも熱く、不器用で、そして私の罪まで背負おうとした、愚かな熱血漢。
あかねさん。
私のために怒り、私のために泣いてくれた、太陽のような少女。
未来さん。
ミステリアスで、どこか抜けているようで、しかし誰よりも強い信念を持った、静かな少女。
そして、葵。
私が一度はその手を振り払い、失ってしまった、かけがえのない半身。
その一人一人の顔が、浮かび、そして消えていく。
温かい記憶。
私が生きていると実感させてくれた、光。
しかし。
今の私の心は、その温かい光に対して、嘲笑を浮かべていた。
(…ああ、そうだ。くだらない)
(なんと無意味な感傷だろう)
(あの熱血漢の魂は、この盤上では何の役にも立たない)
(あの太陽の笑顔は、この一球の回転を変えることはできない)
(あの静かなる少女の信念も、この一点の重さの前では無力だ)
(そして、あの親友の存在は…そうだ。彼女こそが、私の心にこの「感情」という名の最大のバグを生み出した、元凶だ)
私の唇が、ほんのわずかに歪む。
それは、自らを嘲るような、冷たい笑みだった。
(結局、私は何も変わっていない)
(絆?仲間?そんな不確かなもので、自分を慰めているだけだ)
(私がこの世界に存在する価値があるかどうか。それを証明できるのは、ただ一つ)
私の思考が、結論を出す。
それは、父に教え込まれた、私が生まれてからずっと従い続けてきた、唯一の、そして絶対的な法則だった。
(――勝つこと。ただ、それだけだ)
私は、ラケットを振り抜いた。
その一球に込められたのは、感謝でも愛情でもない。
ただ、絶対的な勝利への渇望。
それだけだった。
放たれたのは、ネットすれすれを這うような、上質な下回転のショートサーブ。
私の思考が、未来を予測する。
(…来る。あなたは、このボールをただ返すことはしない。あなたは私を、力でねじ伏せようとする)
その予測通り。
橘コーチは、その短いボールに対し驚異的な踏み込みで台の中に入り込み、そして強引に力で押し込もうとしてくる。
獣のような一撃。
しかし、それこそが私の描いたシナリオだった。
(…予定通り)
そのボールが私のコートに突き刺さる、その瞬間。
私の全身の関節と、まだ不完全な筋肉を、一つの巨大な「バネ」のように役割を持たせる。
私はそのバネを極限まで圧縮し、そして、解放した!
それは、部長との地獄のトレーニングの中で私が身につけた、「力の前借り」のようなもの。
放たれたカウンタードライブは、彼の予測を遥かに超える速度で、逆サイドへと突き刺さる。
しかし、その強烈な一撃と引き換えに。
私の体は、その反動に耐えきれず、打つと同時に床へと崩れ落ちていた。
どん、と鈍い音を立てて、尻餅をつく。
静寂。
そして、カツン、と乾いた音がした。
私の放ったボールが、彼のいないオープンスペースに突き刺さった音だった。
静寂 4 - 1 橘
体育館中の誰もが、息をのむ。
床に無様に座り込む、私。
そして、私が放った、あまりにも完璧な一撃。
その、あまりにも歪な光景に。
私は荒い息を吐きながら床に手をつき、そしてゆっくりと立ち上がった。
心の中で、静かに呟く。
それは、私の新しい、そして本当の覚悟の言葉だった。
(…そうだ。これで、いい)
(どれだけ無様に倒れようと、関係ない)
(その度にまた起き上がり、そして次なる強烈な奇策を叩き込む)
(そうして、最後に立っていた者が、勝者だ)
これが、私の戦いかた、数多の奇策からは考えられない、泥臭いファイト、だが―――――
(私は、これでいい)
ネットの向こう側で、橘コーチが初めて狼狽の色を浮かべたのを、私の目は確かに捉えていた。
この戦いの主導権は、完全に私が握ったのだ、と。




