氷の帰還
私はラケットを強く握り直し、そしてネットの向こう側で静かにこちらを見つめる、恐るべき「教授」を睨みつけた。
サーブ権は、私。
スコアは、3-1。
私はボールを手に取り、そして思考を巡らせる。
(…どうする)
喫緊の課題は、彼のあの世界レベルのパワーと回転に、どう対処するか。
私のサーブで主導権を握らなければ、次のラリーもまた彼の土俵(パワー勝負)に引きずり込まれるだけだ。
(…下手な回転ではダメだ。彼の技術なら、容易にカウンターを食らう)
(アンチでのナックルサーブ?…いや、これもダメだ。相手はこちらの心理を覗いているだろう、そんな中で出した、見切られたナックルは、ただのチャンスボールだ)
(なら、YGサーブ?ダメだ、本家本元に使うには頼りなさ過ぎる。部長の模倣のパワーサーブも論外だ、本物のパワーで押し返されるだけ)
思考が、袋小路に迷い込む。
全ての道が、塞がれている。
(…どうする?…手を考えろ)
ネットの向こう側では、橘コーチが静かに、そして楽しそうに構えている。
「打ってこい」と。
私の思考の全てを、見透かすように。
焦り。
恐怖。
そして、敗北への予感。
その黒い感情が、私の心の中で渦を巻き始める。
汗が、頬を伝う。
ラケットを握る手が、わずかに震えた。
その、瞬間だった。
私の頭の中で、声がした。
それは、私の声ではなかった。
夢の中で一つになったはずの、あの氷のように冷たい声だった。
(…思考が、うるさい)
その一言で、私の頭の中の全ての雑音が、ぴたりと止んだ。
(感情はノイズだ。勝利という最適解を導き出す上で、最も不要な変数)
そうだ。
私は、忘れていた。
この、戦い方を。
この、生き方を。
私の瞳から、感情の色がすうっと消え失せていく。
焦りも、恐怖もない。
ただ、絶対零度の静寂だけがそこにあった。
体育館の喧騒が遠のいていく。
仲間たちの声援も聞こえない。
私の世界には、ただの白球と、卓球台、そして目の前の「分析対象」だけが存在していた。
その、私のあまりにも急激な変化。
橘コーチの、その楽しげだった表情が、初めて凍りついた。
彼の目の前に立っているのが、もはやただの傷ついた中学生ではないということに、彼はようやく気づいたのだ。
そこに立っているのは、全ての感情を捨て、ただ勝利のためだけに存在する、かつての「静寂の魔女」そのものだったのだから。
その瞳には、何の光も宿っていない。
ただ勝負を賭ける、勝負師の目がそこにはあった。




