魔女と魔術師(2)
スコアは、0-0。
体育館の全ての視線が、サーブの構えに入った私の、その一点に注がれている。
私は、ボールを高くトスした。
そして、動く。
大袈裟なまでに大きなテイクバック。そのモーションの中で、私はラケットをひらりと半回転させた。
そのあまりにも特異な動きに、橘コーチの眉がわずかに動く。
放たれたのは、床を舐めるような、超低空のナックルロングサーブだった。
プロの世界ですら、まず見ることのないであろう奇妙な打法。
橘コーチは、一瞬困惑の表情を浮かべた。
しかし、その世界レベルの動体視力と経験が、ボールが「無回転」であることを瞬時に見抜く。
彼は、無理に打ち抜くことはせず、あくまでデータを収集するという自らの戦術に従い、ボールの威力を殺すように、慎重にショートで返球した。
完璧な、様子見の一手。
しかし、それこそが、私が仕掛けた罠だった。
その、あまりにも安全な返球が、彼のコートから離れた、その瞬間。
私は、動いていた。
台へと獣のように踏み込み、そして、コンパクトに振り抜かれた私のラケットが、ボールを捉える。
チキータだ!
その、あまりにも攻撃的な三球目。
橘コーチの思考が、完全に停止した。
ショートで返ってくるはずがない、という彼の予測の、さらに裏をかく一撃。
放たれたボールは、彼の反応を置き去りにして、閃光となってサイドラインを駆け抜けていった。
静寂 1 - 0 橘
しん、と静まり返る体育館。
後輩たちは、今、何が起きたのかを理解できていない。
ただ一人、橘コーチだけが、全てを理解していた。
彼の瞳から、あの学者のような余裕の色が、完全に消え失せている。
代わりにそこにあるのは、未知の生物に遭遇したかのような、純粋な驚愕と、そしてわずかな恐怖。
彼は、理解したのだ。
自分が、試しているつもりで、逆に、試されていたのだということを。
自分が、分析しているつもりで、その思考さえも、分析されていたのだということを。
私は、静かに定位置へと戻る。
その表情は、変わらない。
私の、その瞳は、確かにこう告げていた。
「様子見をしている暇など、ありませんよ」と。
しかし、彼は元・世界ランカー。
その動揺を一瞬で押し殺し、再び冷静な表情で構え直す。
(…面白い。面白いじゃないか、静寂しおり)
(だが、まだだ。まだ君の全てを見たわけじゃない)
彼はまだ、観測を続けるつもりのようだ。
いいでしょう。
ならば、こちらも次なる「問い」を、あなたに提示するだけ。
私は、静かに定位置へと戻る。
サーブ権は、私。
再び、あの大袈裟なまでに大きなテイクバックから、今度は速いロングサーブを彼のバックサイド深くに叩き込んだ。
彼はそのサーブに完璧に反応する。
力強いドライブで応酬してきた。
ラリーが始まる。
ドライブとドライブの応酬。
私はあえて、彼の土俵で戦う。
しかし、その一球一球にリスクを乗せて。
徐々に、徐々に、打球のスピードを上げていく。
まだ本調子ではない私の体が、悲鳴を上げるのが分かる。
だが、構わない。
ラリーが数本続いた、その時だった。
高速のラリーの中で彼が放った一球が、私のフォアサイドへと深く突き刺さる。
普通の選手なら、ブロックで凌ぐのが精一杯のボール。
私はそのボールに対し、ラケットを半回転させながら、しかしドライブと全く同じモーションで、思いっきり叩きつけた!
ボールを捉えたのは、赤い裏ソフトではない。
黒いアンチラバーだ。
その、あまりにも予測不能な一撃。
橘コーチの思考が、再び停止する。
(ドライブのモーション!?ならば、来るのは強烈な上回転…!)
彼の体は、その予測に基づきラケットの角度を完璧に合わせていた。
しかし。
彼の元へと飛んでいったのは、上回転のボールではない。
アンチラバーが全ての回転を殺し、そしてドライブの力が全く伝わっていない、ふらふらとした無回転の「死んだ球」だった。
そのボールは彼の予測よりも遥かに低く、そして遅く、力なく沈んでいく。
彼のラケットは、無情にもボールの上を空しく通り過ぎた。
そして、その白い球は彼の足元で力なく弾み、ネットへと突き刺さった。
静寂 2 - 0 橘
体育館が、今度こそどよめきに包まれる。
私は、静かに息を吐き出した。
そして、心の中で彼に告げた。
(…観測は、終わりです、コーチ)




