魔女と魔術師
私はラケットを握り、コートへと向かう。
ネットを挟んで向き合った、橘コーチ。
元・世界ランキング4位。多彩な変化の数々から、ついたあだ名は『台上の魔術師』。
その伝説の選手を前に、体育館の空気はピンと張り詰める。
私は、静かに口を開いた。
「ルールは、どうしますか、コーチ」
彼は少しだけ口元を緩め、そしてこともなげに言った。
「1セットマッチ。それで十分だろう」
「…そして、サーブ権も君にあげよう」
その言葉。
後輩たちの目には、絶対的な強者の「余裕」と映っただろう。
しかし、私の目には、全く違うものが見えていた。
(…思い出した。彼の現役時代の試合データ)
(格下の選手との初対戦。その、第一セットの戦い方)
(彼は常に、相手に最初の一手を委ねる。相手の全力の一撃をその身で受け止め、データを収集し、後半で完璧に解体する。…なるほど。私を分析する気ですか)
(そして、私もその格下の中の一人……、つまり、完全に油断しているということ)
私の心の中で、氷のように、静かに囁く。
私はボールを手に取り、そしてあえて彼の挑発に乗ってみせた。
「いいでしょう。そのハンデ、ありがたく頂戴します」
「…『油断』がいかに命取りになるか。後輩たちに、身をもって示してあげたいと思っていましたから」
その私の言葉の裏にある、本当の「毒」に、彼はまだ気づいていない。
彼の瞳の奥に、面白い研究対象を見つけた学者のような、楽しげな光が宿っている。
(…面白い。あなたは私を観測しているつもりでしょう)
(しかし、本当は逆です。橘コーチ)
私は、サーブの構えに入る。
(あなたのその戦い方は、もう全て私の頭脳の中にある)
(あなたがこれから何をしようとしているのか。私には、全て見えている)
(…この最初の一球で、あなたのその余裕を、完全に破壊します)
魔女と、魔術師。
二人の天才が繰り広げる、究極の頭脳戦。
その歴史の一ページが、今、静かに幕を開けようとしていた。
まだ、誰も知らない。
本当の意味で試されているのが、どちらの側であるのかを。




