卒業
三学期の終わり。
卒業式を数日後に控えた、その日の放課後。
体育館には、第五中学卓球部の全部員が集められていた。
練習はない。
ただ、静かな緊張感だけが、その場所を支配していた。
全部員の前に立ったのは、部長である私、幽基未来。
そして、その隣にはあかねさんと、まっすぐに立つしおりさんの姿があった。
私は、ゆっくりと口を開いた。
これが、部長としての私の、最後の仕事。
「…三年生は、今日で引退します。本当に色々なことがあった一年でした。頼りない部長に、最後までついてきてくれて、本当にありがとう」
私は、深く頭を下げた。
部員たちが、息をのむ気配がした。
顔を上げ、私は続ける。
「そして今日、この場で、新しい部長を指名します」
体育館が、ざわめいた。
誰もが固唾をのんで、私の次の言葉を待っている。
私の心に、迷いはなかった。
「…新部長は、あなたに託します。静寂しおりさん」
その名前に、部員たち、特に一年生たちの顔がぱあっと明るく輝いた。
そうだ。誰もがそれを望んでいた。
この部を再び全国の頂点へと導けるのは、彼女しかいない、と。
誰もが信じて、疑わなかった。
しかし。
その期待に満ちた空気の中で、しおりさんは静かに一歩前に出た。
そして、私に、そして全部員に聞こえるように、はっきりと告げたのだ。
「…そのお話は、お受けできません、未来さん」
静寂。
誰もがその言葉の意味を理解できずに、立ち尽くしている。
しおりさんは、続けた。
「私には、部長の資格はありません。私はこの部の頭脳にはなれるかもしれない。しかし、心臓にはなれない」
「このチームの心を束ね、その魂を導くことができるのは、ただ一人だけです」
彼女は、ゆっくりと隣に立つ少女へと向き直った。
そして、その肩にそっと手を置いた。
「新部長は、彼女がふさわしい。あかねさん。あなたです」
「――え…!?」
あかねさんが、素っ頓狂な声を上げる。
「む、無理だよ、しおりちゃん!私、選手じゃないし!ただのマネージャーだよ!?」
「ええ」と、しおりさんは静かに頷いた。
「だから、いいのです」
「私が眠っていた時も、猛先輩が去ってしまった時も。この部が本当に壊れそうだった瞬間、その中心で、未来さんとあかねさん、二人で光を灯し続けてくれたのは、あなたです、」
「あなたがこの一年間、誰よりもこの部の痛みを知り、誰よりも私たちの心に寄り添ってくれた。そのあなたの優しさこそが、今のこのチームには必要なのですから」
その、静かで、しかし絶対的なしおりさんの言葉。
誰も、反論はできなかった。
しかし、その時だった。
一年生の一人、朝比奈くんが勇気を振り絞って声を上げた。
「…でも、しおり先輩!俺たちはあなたに憧れてこの部に入ったんです!あなたが部長じゃないなんて、納得できません!」
その、あまりにもまっすぐな問い。
体育館中の視線が、再びしおりさんに集まる。
彼女は、困ったように少しだけ微笑んだ。
そして、告げたのだ。
その、本当の理由を。
彼女の魂が見つめる、その遥か先の未来を。
「…ごめんなさい、朝比奈くん」
「私は、もうこの中学という小さな舞台だけを見ているわけにはいかないのです」
「一年で中学は制しました、もう中学の大会にでる意味はない」
「そして、私の戦場は、ここだけではない。もっと、大きな場所にあります」
体育館の空気が、彼女の存在感だけで張り詰めていく。
それはもはや、中学二年生の少女が放つものではなかった。
彼女は体育館の高い天井を見上げた。
まるで、その向こう側に広がる世界を見据えるように。
「私は、世界に挑みます」
その、静かな、しかし絶対的な女王の宣言。
その言葉の本当の意味を、この時理解できた者はまだ誰もいなかった。
しかし、そのあまりにも気高い魂の輝きの前に、私たちはただ、息をのむことしかできなかった。
第五中学卓球部の、古い時代が終わり、そして、新しい伝説が始まろうとしていた。
その歴史的な瞬間に、私たちは確かに、立ち会っていたのだ。




