回り出す歯車
地元から戻り、東京での高校生活を、本当の意味で、少しずつ楽しめるようになってきた、ある日の放課後。
俺は、五月雨高校の体育館でラケットを握っていた。
目の前には、格上であるはずの三年生の先輩。
試合形式の練習が始まろうとしている。
以前の俺なら、ただ闇雲に自分の力を誇示することだけを考えていただろう。
罪悪感を振り払うように。
自分を痛めつけるように。
しかし、今の俺の心は、不思議なほど穏やかだった。
あの、年越しの日。
しおりに全てを見透かされ、そして全てを受け止めてもらったあの日から。
俺の心の中に巣食っていた黒い亡霊は、静かに姿を消していた。
…久しぶりに。落ち着いて、ボールが打てそうだ。
こんなに落ち着いた気持ちになるのは久しぶりだ。
ラリーが始まる。
俺はまず、自分の原点であるパワーで相手を押し込んでいく。
しかし、その一球一球に、以前のような焦りや怒りはない。
ただ、冷静に相手の動きを観測する。
相手の重心、ラケットの角度、そして呼吸のリズム。
…そうだ。あいつは、いつもこうやって世界を見ていたんだな
しおりのあの、冷徹な視点が、いつの間にか俺の中に宿っている。
ラリーが数本続いた、その時。
俺は、動いた。
それまで放っていた剛速球のドライブとは全く質の違う、
ふわりとした、ループドライブを、相手のフォアサイドへと送る。
相手は、そのあまりの緩急差に完全にタイミングを狂わされ、甘いボールを返球してきた。
(…もらった)
俺は、そのチャンスボールを必殺のスマッシュで叩き潰した。
体育館の隅で見ていた小笠原が、息をのむ気配がした。
そうだ。
俺は自戒から、無意識に封印していたのだ。
あの日々、しおりと打ち合う中で彼女から嫌というほど叩き込まれた、その戦術の数々を。
俺に、しおりと共に過ごした、あの練習の力を使ってはいけないと、勝手に思い込んでた。
……だが、もういいよな?
俺は、解き放った。
猛る獣のような「パワー」と、
魔女から受け継いだ、冷徹な「変化」を。
その二つが俺の中で完全に融合し、新しい力が生まれる。
相手はもう、俺の卓球についてこれない。
剛のボールが来たかと思えば、柔のボールにいなされ、
柔のボールに対応しようとすれば、剛のボールに粉砕される。
俺の身を砕くような鍛え方もあってか、一年前、ストップをかけるにも苦労していた、俺の回転量は、確実に上がっていた。
無論、しおりのコントロールには遠く及ばないが、緩急をつけた戦いは、俺に主導権が流れてくる。
そして、完全に試合の主導権を握った。
試合が終わる。
俺の圧勝だった。
俺はネットの向こう側で呆然と立ち尽くす先輩に深く一礼した。
そして、自分の拳を強く握りしめる。
(…見てるか、しおり)
俺は、もう逃げない。
俺は俺のやり方で、お前がいるその頂点まで、必ず駆け上がってやる。
そして、いつかもう一度、お前と最高の舞台で笑い合うために。
その静かな決意を胸に。
俺の、停滞していた一年、遠回りをして、歯車が回り出す。




