許されない対話
彼のボールは、先ほどとは全く別物だった。
しなやかで、力強く、そして何よりも楽しそうだ。
私もまた、その「対話」を楽しんでいた。
(…そうか)
(これが、この「目」の本当の使い方なのかもしれない)
相手を破壊するためではなく。
相手を分析し、理解し、そしてその人が持つ本来の輝きを引き出すために。
私のこの、呪われた「傷跡」は、誰かを癒やすための「力」にも、なりうるのかもしれない。
その新しい可能性の光が、私の心を、静かに、そして温かく照らし始めていた。
しかし。
その温かい時間は、長くは続かなかった。
ラリーが数分続いた、その時。
私の体の奥から、ずしりとした重い疲労が這い上がってきた。
腕が、重い。
呼吸が、少しずつ乱れていく。
(…そろそろ、限界か)
私の思考が、冷静に自らの肉体の活動限界を告げる。
私はラリーを止め、そして健吾くんに提案した。
「…健吾くん。最後に一本だけ、試合形式でお願いできますか」
「!はい!」
彼は、緊張と興奮が入り混じった顔で、力強く頷いた。
一点先取。サーブは彼から。
彼は深く息を吸い込み、そして彼の持てる全てを込めたであろう、上質な下回転のロングサーブを放ってきた。
その瞳が輝いている。
(…見たいんだ。私の、あの「魔術」を)
私は、彼のその純粋な願いに応えることにした。
ひらりとラケットを半回転させ、アンチラバーの面でそのサーブを捉える。
完璧なカット。
(さあ、あなたならこのボールにどう答える?)
そう問いかけるような、様子見の一手。
しかし、そのラケットを振り抜いた瞬間だった。
私の足から、ふっと力が抜けた。
視界が、ぐらりと揺れる。
(…まずい…!)
私の思考が、警報を鳴らす。
そうだ。私は忘れていた。
今の私には、相手の出方を見るような悠長なラリーを続ける体力など、残ってはいない。
この「様子見」というかつての安全策は、今の私にとっては敗北に直結する最大のリスクでしかないのだと。
この体では、もう彼と「語り合う」ことさえ許されない。
彼は、私の問いかけに、まっすぐに答えてくる。
彼は私のその甘い返球に対し、獣のように踏み込み、そして全身全霊のスマッシュを放ってきた!
閃光が、私を襲う。
だが、私の心は凪いでいた。
(…リスクを、取る)
相手がラケットを振り抜く、その瞬間。
私の頭脳は、すでにその着弾点を完璧に予測している。
私は崩れ落ちそうになる体の最後の力を振り絞り、その予測地点へとラケットを差し出した。
そして、インパクトの瞬間に全てを込めて、切りつける。
そのボールを捉えたのは、黒いアンチではない。
赤い、裏ソフトだ。
私は床に崩れ落ちながら、そのボールを叩きつけた。
放たれた強烈なカウンタードライブは、健吾くんの全くいないオープンスペースを、大きく抉るように突き刺さった。
静寂。
そして次の瞬間、あかねさんと未来さんが悲鳴に近い声を上げて、私の元へと駆け寄ってきた。
「しおりちゃん!!」
「大丈夫ですか、しおり先輩!」
健吾くんもネットを回り込み、顔を真っ青にしている。
私は床に座り込んだまま、荒い息を吐きながら彼らに答えた。
「…大丈夫。少し、疲れただけ…」
そして、私は呆然と立ち尽くす健吾くんを見上げた。
静かに、しかしはっきりと告げる。
それは、彼への、そして新しい自分自身への言葉だった。
「…あなたの戦い方は、何も間違っていない。そのまっすぐな心を、忘れないで」
「ただ、覚えておいて。本物の勝負の世界では、対話が許されない一瞬がある。対話を拒否する相手もいるということを。そして、その相手との戦い方は、自分自身で見つけるしかない、ということを」
その言葉の本当の意味を彼が理解するのは、まだ少し先の話。
私は仲間たちに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
私の、新しい「最適解」の探求は、まだ始まったばかりなのだ。




