異端の目
私が正式に部活への復帰を果たしてから、数日が過ぎた。
もちろん、まだコートに立って試合ができるわけではない。
私の新しい定位置は、コートの隅に置かれたパイプ椅子の上。
そこから仲間たちの練習を見守り、そして時折、気づいたことを未来さんに伝える。
それが、今の私にできる全てだった。
その日も、私は一年生同士の試合形式の練習を観察していた。
一人の子が、明らかに追い詰められている。
フォームが崩れ、打球が安定しない。
以前の私なら、そこで思考を終えていただろう。
「フォームの修正が必要だ」と。
しかし、今の私の「目」は、違うものを見ていた。
(…違う。フォームが崩れているのではない。心が崩れているんだ)
私の頭の中に、無数の情報が流れ込んでくる。
→ 相手の得点後、ほんのわずかに下唇を噛む癖。(サイン:焦りと苛立ち)
→ ミスをした後、ラケットではなく自分の太ももを叩く仕草。(ベクトル:怒りは相手でなく自分へ)
→ サーブを打つ前の時間間隔が、少しずつ短くなっている。(状態:思考の追い詰め、冷静な判断の欠如)
私はもはや、彼の卓球の技術ではなく、彼の「感情」そのものを観測していた。
そして、その感情の波を読めば、彼が次にどんなミスを犯すのか、手に取るように分かった。
これが、「異端の目」の新しい応用。
(…しかし)
私の思考に、一つの問いが浮かび上がる。
(なぜ、私にはこれが見えるのだろう?)
(人の心の、その僅かな揺らぎが、なぜこれほどまでにクリアな「データ」として、私の頭脳に流れ込んでくるのだろうか)
その問いが、引き金になった。
私の脳裏に、封印していたはずの遠い過去の記憶が、フラッシュバックする。
…薄暗いリビング。
ソファに座り、酒を飲む父。
私は部屋の隅で、息を殺している。
私は、見ていた。
彼の、眉間の皺の深さを。
彼が、グラスをテーブルに置く音の大きさを。
テレビを見つめる、その瞳の色の僅かな変化を。
その全ての情報から、私は予測するのだ。
今日の彼の「機嫌」という名の天気を。
そして今、私が息をしていいのか、それとも死んだように気配を消すべきなのかを。
間違えれば、待っているのは暴力という名の嵐。
…ああ。
そうか。
私は、全てを理解した。
私のこの「目」は、卓球のために生まれたのではなかった。
これは、私が、あの地獄のような家の中でただ生き延びるために、身につけなければならなかった、生存戦略。
父の怒りの兆候を見逃さないために。
殴られないように、蹴られないように。
私はずっと、人の顔色を窺い、その心の内側を観測し続けてきたのだ。
何年も、何年も、一日も休むことなく。
(…これは、才能なんかじゃない)
私は、そっと自分の胸に手を当てた。
(これは、私の魂に刻み込まれた、傷跡そのものだ)
その、あまりにも悲しい真実に、私の唇からか細い息が漏れた。
隣で、あかねさんが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
私は彼女に、力なく笑みを返すことしかできなかった。
私のこの、呪いのような「力」の本当の意味を知る者は、この世界に私一人しかいないのだから。




