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異端の白球使い  作者: R.D
引き継がれる異端 それぞれの過去

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授業の続き

 二時間目は、国語の授業だった。


 題材は、中島敦の名作『山月記』。


 主人公の李徴りちょうが、その高すぎる自尊心と羞恥心から虎に変身してしまう、あのあまりにも有名で、そして悲しい物語だ。


 佐藤先生が、教科書通りの模範解答を解説する。


「…つまり、作者がここで言いたいのは、高すぎるプライドは人間を獣に変えてしまう、という戒めなのです。分かったかな?」


 クラスのほとんどが、静かに頷く。


 その穏やかな授業の空気を破ったのは、私の静かな呟きだった。


「…先生。私は、そうは思いません」


 その、凛とした声に、教室中の視線が私に集まる。


 先生が、驚いたように私を見た。


「…ほう。静寂さん。君は、どう思うんだね?」


 私は、ゆっくりと立ち上がり、そして告げた。


 それは、この一年間で私が学び、そして理解した、人間の魂のメカニズム。


「李徴が虎になったのは、自尊心が高すぎたからではありません」


「その、あまりにも脆い自尊心を、これ以上傷つけられないように守るためです」


「守るため…?」


「はい。彼は天才だった。しかし、その天才であるがゆえの孤独に耐えられなかった。自分の才能が、もし世間に認められなかったらどうしよう。凡人たちに笑われたらどうしよう。その臆病な恐怖こそが、彼を苛む本当の『猛獣』でした」


「だから彼は、選んだのです。自らの意志で、本物の『獣』になることを」


 私はそこで一度言葉を切り、そして教室の隅で息をのむ、れいかさんの瞳を真っ直ぐに見つめながら続けた。


 それは、彼女に、そして、かつての私自身に向けた言葉だった。


「誰にも理解されない人間であり続ける苦しみより、誰からも恐れられる獣でいる方が、遥かに楽だからです」


 その、あまりにも痛切な言葉。


 教室は、水を打ったように静まり返った。


 佐藤先生は言葉を失い、ただ呆然と私を見つめている。


 前の席のあかねさんが心配そうに私を振り返り、そして隣の未来さんが深く頷いているのが、視界の端に映った。


 そうだ。


 李徴の虎は、彼を罰するためのものではない。


 それは、彼の脆い心を覆う、悲しい「鎧」だったのだ。


 かつての私が、あの「氷の壁」を必要としたように。


 その静寂の中で、私は静かに席に着いた。


 私の孤独な魂の告白は、冬の教室の乾いた空気に、静かに溶けていった。



 三時間目は、体育だった。


 種目は持久走。グラウンドを15分間走り続けるという、私にとっては最も過酷な授業。


 着替えを終えグラウンドに出ると、体育教師の田中先生が私を手招きした。


 彼の顔には人の良い、しかしどこか腫れ物に触るような、ぎこちない表情が浮かんでいる。


「おー、静寂!無理はするなよ。今日の授業は見学でいいからな。あそこのベンチで休んでいなさい」


 その大きな声。


 クラス中の視線が、一斉に私に集まる。


 同情、憐れみ。そして、ほんの少しの安堵。


「ああ、やっぱりあいつは違うんだ」という、無言の線引き。


 かつての私なら、黙ってその「配慮」を受け入れていただろう。


 しかし、今の私は違う。


 私は先生の目を真っ直гуに見つめ返し、そして静かに、しかしはっきりと告げた。


「いえ、先生。私も、参加します」


「なっ…!?しかし、君の体は…!」


「走ることはできません。でも、歩くことはできます。自分のペースで、やらせてください」


 私のその瞳に、先生は何も言えなくなった。


 彼はしばらくためらった後、根負けしたように小さく頷いた。


 開始のホイッスルが鳴り響く。


 クラスメイトたちが一斉に、土煙を上げて駆け出していく。


 その躍動する若さの奔流の中、私は一人、スタートラインに取り残されていた。


 右手に握りしめた杖の感触を確かめる。


 そして、最初の一歩を踏み出した。


 遅い。


 あまりにも、遅い。


 クラスメイトたちがグラウンドを一周する間に、私はまだ50メートルも進んでいない。


 肺が苦しい。足が重い。


 額から噴き出す汗が、目に入って滲みる。


 そのみっともない私の姿を、誰もが追い抜きざまに見ていく。


(…痛い)


(…苦しい)


(…みっともない)


 しかし。


 私の心は、不思議なほど穏やかだった。


 なぜなら、この一つ一つの「痛み」こそが、


「私は今、生きている」


 という、私が忘れていた、鮮烈な「実感」を与えてくれるからだ。


 冷たい風が心地よい。


 これは、父に与えられた痛みではない。


 これは、れいかさんに与えられた痛みでもない。


 これは、私が自らの意志で選んだ、尊い痛みなのだ。


 15分後。


 終了のホイッスルが鳴った時、私はまだグラウンドの半周もできていなかった。


 息も絶え絶えで、その場に崩れ落ちそうになる。


 しかし、私の周りの空気は、始まる前とは全く違っていた。


 クラスメイトたちの視線から、同情や憐れみの色は消えていた。


 その代わりにそこにあったのは、ほんの少しの驚きと、そして静かな「敬意」だった。


 あかねさんが、タオルを持って駆け寄ってくる。


 彼女の顔は、心配と、そして誇らしさでぐちゃぐちゃになっていた。


 私はそんなあかねさんに支えられながら、笑ってみせた。

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