三学期
一月の終わり。三学期が始まって数週間が過ぎた、冬の朝。
私は、一年近くぶりに第五中学の制服に袖を通した。
ぶかぶかだったスカートもブラウスも、今の私の痩せた体には、皮肉なほどぴったりとフィットしている。
玄関に立て掛けてある、一本の杖を持ち、そして外の世界へと一歩を踏み出した。
校門の前に着くと、そこには見慣れた二つの人影があった。
未来さんと、あかねさんだ。
「おはよう、しおりちゃん!」
「おはようございます、しおりさん。体調は?」
「…はい。問題ない、です」
私は、右手に握りしめた一本の黒い杖に少しだけ体重を預けながら答えた。
私たちが三人で昇降口へと向かう、その瞬間。
それまで賑やかだった生徒たちの喧騒が、嘘のように静まり返った。
全ての視線が、私一人に注がれているのが分かる。
(…観測されている)
同情、好奇、畏怖、そして憐れみ。
様々な感情の色が混じった、視線のシャワー。
かつての私なら、その無遠慮な視線に心を閉ざしていただろう。
しかし、今の私は違う。
私は顔を上げ、その全ての視線を静かに受け止めた。
そして、未来さんとあかねさんに支えられるように、自分の教室へと向かう。
二年生の教室。
私が自分の席に着いた後も、クラスメイトたちの好奇の視線は、ずっと私の背中に突き刺さっていた。
私はそれを無視し、ただまっすぐに黒板だけを見つめる。
その日の最初の授業は、数学だった。
担任でもある佐藤先生が、教壇に立つ。
授業は、ごく普通に進んでいった。
先生は私に特別気を遣うでもなく、かといって無視するのでもなく、ただいつも通りに授業を進めてくれる。その自然な配慮が、ありがたかった。
問題は、練習問題を解いている時に起きた。
先生が、一人の生徒を指名したのだ。
「――では、あかねさん。この問題の答えは?」
あかねさんだった。
彼女は、私のすぐ前の席に座っている。
慌てたように立ち上がった彼女の横顔には、焦りの色が浮かんでいた。
きっと、私のことが気になって、授業に集中できていなかったのだろう。
彼女はしばらく口ごもった後、自信なさげに一つの答えを口にした。
それは、計算の途中で一つ符号を間違えた、惜しい間違いだった。
「…うーん、残念。少し違うかな」
先生が、困ったように頭をかく。
あかねさんの顔が、恥ずかしさで赤く染まっていく。
私は、前のめりになり、あかねさんの耳元に顔を寄せた。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、囁いた。
「…二行目の展開。プラスとマイナスが、逆になってる」
その、一言だけ。
あかねさんの肩が、びくりと震えた。
彼女は驚いたように私を振り返り、そしてすぐに全てを理解したように、こくりと頷く。
そして、彼女はもう一度前を向き、今度ははっきりとした声で言った。
「あっ!先生、分かりました!答えはこうです!」
彼女が告げた完璧な答えとその解説に、先生は満足そうに頷いている。
あかねさんがほっとしたように席に着き、そしてもう一度だけ私を振り返った。
その瞳には、驚きと、そして心からの感謝の色が浮かんでいる。
私は、彼女にだけ分かるように、ほんの少しだけ口元を緩めてみせた。
誰も、気づいていない。
この教室の中で、今、何が起きたのか。
私が、戻ってきたということを。
いや、たった一人だけ。
窓際の席で、青木れいかさんが、信じられないといった顔で、こちらを見ていたような気がした。




