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異端の白球使い  作者: R.D
異端者
6/608

異端者 (6)

 市町村大会当日。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の静寂を破る。

 アラームが鳴る前に目を覚ましたのは、試合がある日特有の、内側から湧き上がる静かな闘志。一人暮らしの家には、私の呼吸音だけが響いている。


 朝食は、いつもと同じトーストと牛乳。味気ない日常だが、このルーティンは、私にとって心を落ち着かせる儀式のようなものだった。

 食卓には、母からの「頑張ってね」という短いメッセージが、ぽつんと置かれているだけだった。祖父母も、遠くから私のことを気にかけてくれているだろう。しかし、この日の朝、私のそばにいるのは、私だけだ。


 卓球ウェアに着替え、真新しいブレザーの制服を畳んでラケットバッグに詰める。グリップテープを巻き直したばかりのラケットを手に取り、ラバーの感触を確かめる。裏ソフトの吸い付くような摩擦と、スーパーアンチの滑らかな表面。この二つの異なる感触が、私の戦いを支える全てだ。

 鏡に映る自分は、中学一年生としては小柄に見える。小学五年生の頃と、身長はほとんど変わっていないかもしれない。同学年の選手と並べば、その差は歴然だろう。しかし、この体躯が、私が異質なスタイルを選び、知性を、そして技術を磨く理由となった。


 バッグを肩にかけ、玄関のドアを開ける。春の少し冷たい空気が、顔に触れる。

 外は既に、大会へ向かうであろう他の学校の選手らしき姿が見える。真新しいジャージを着た集団、あるいは保護者と一緒に歩いている選手たち。

 彼らの間からは、緊張や期待、そして仲間との連帯感が伝わってくる。私には、それらの全てが遠い世界の出来事のように感じられた。


 …彼らにとって、卓球は、友人との思い出、青春の一ページ。私にとって、卓球は…


 答えはでない。


 私の思考は、いつも冷静で、分析的になってしまう。彼らの表情、歩き方、バッグの持ち方から、彼らがどの程度の緊張感を抱いているか、経験者か初心者か、といった情報を無意識のうちに読み取る。

 それは、卓球という世界で、そしてあの地獄で、生き抜くために身についた、私の癖のようなものだった。


 最寄りの駅まで歩く。普段の通学路とは異なり、ラケットバッグを持った学生が多い。電車の中も、様々な学校のジャージ姿の選手たちで混み合っている。

 彼らの会話が耳に入る。対戦相手について、練習について、緊張について。私は、彼らの会話をBGMのように聞き流しながら、窓の外を流れる景色を見つめる。


 中学校の最寄り駅で降り、部員たちとの集合場所である学校へ向かう。学校の昇降口には、顧問の先生と、卓球部の部員たちが集まっていた。皆、市町村大会のゼッケンをつけ、少し緊張した面持ちだ。

 私の姿を見ると、部員たちの視線が私に集まる。驚きや、まだ慣れない異質なものを見るような視線。


「静寂! 遅いぞ!」

 顧問の声。いつものように、簡潔で、しかしどこか期待を含んだ声だった。

「申し訳ありません」

 私は、定位置に立ち、顧問に礼をした。

「まあ、間に合ったなら良い。皆、緊張しているようだが、君はいつも通り冷静だな」

 顧問は、私の顔を見て、少しだけ目元を緩めた。


 部員たちの輪に加わる。彼らは、私に声をかけようか戸惑っているようだったが、やがて部長らしき先輩が声をかけてきた。

「静寂…、今日の試合、頑張ろうな」

 意外だった。私のような人間に声をかける人がいるなんて。

「はい、頑張りましょう」

 私は、簡潔に答えた。彼らの緊張感が、私に伝わってくる。それは、私にはもう感じられない種類の感情だった。


 顧問から、改めて今日の流れと注意点について説明を受ける。そして、部員たちと一緒に、会場へと歩き始めた。

 学校から会場までは、それほど遠くない。道中、他の学校の集団ともすれ違う。彼らもまた、今日の大会に臨む選手たちだ。


 会場である体育館が見えてきた。建物の周りには、各学校の幟が立ち並び、大会の雰囲気を醸し出している。多くの選手や保護者、関係者が集まっている。

 体育館の入り口から聞こえる、独特の喧騒。ウォーミングアップの打球音、応援の声、体育館の床を擦るシューズの音。


 体育館の中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 広い空間に、無数の卓球台が並んでいる。それぞれの台で、選手たちがウォーミングアップをしている。白球が高速で飛び交う音、ラケットの打球音、そして人々の声。それが混ざり合い、独特の熱気を帯びている。


 …ここが、私の証明の場。


 私は、バッグを肩にかけたまま、その光景を冷静に観察する。対戦相手となるであろう選手たち。彼らのプレイ、表情、雰囲気を無意識のうちに読み取る。全てが、私にとって必要な情報となる。


 …悪夢は、どこにでも潜んでいる。しかし、ここでは、白球だけが私の世界だ。


 私は、その独特の空気感を肺いっぱいに吸い込んだ。静かな闘志が、内側から湧き上がる。

 市町村大会。私の「異端」が、初めて広く世に問われる場所。そして、全国優勝という頂点への、最初の戦いが始まる場所。

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