舞い戻る謎のカットマン
夏の体育館は、サウナのような熱気と湿気に満ちていた。
市町村大会、当日。
会場の空気は、異様な熱気と、そして好奇の視線で満たされている。
誰もが、私たちを見ている。
「あれが、あの第五中学か」と。
「全国優勝を果たした、二人の天才がいた、あの…」
そのひそやかな声が、私の肌をちりちりと焼く。
彼らが期待しているのは私ではない。
彼らが見たいのは、今はもうここにはいない、二つの伝説の幻影だ。
開会式が終わり、試合が始まる。
アナウンスが流れた。
「第五中学、幽基未来選手、Fコートへ集合してください」
市町村大会、個人戦。中学最後の夏が、幕を開けた。
私がコートに立つと、会場が少しだけざわめいたのが分かった。
第五中学、新部長。そして、あの静寂しおりの後継者。
彼らの視線には、好奇と、そして侮りが混じっている。
私は試合前に一度だけ、自分のラケットに目を落とした。
それは、しおりさんから託されたブレード。
しかし、そこに貼られているラバーは、もう彼女のものではない。
バック面のアンチラバーは剥がした。
フォア面には、しおりさんと同じディグニクス80。そしてバック面には、私がずっと愛用してきたテナジー64FX。
どちらも攻撃に特化された、裏ソフトラバーだ。
(…しおりさんの戦い方は、しおりさんだけのもの。あの狂気にも似た反復練習と、あなただけの感覚があって初めて成り立つ芸術)
(私には、私の戦い方がある。このラケットと共に)
対戦相手は、典型的な右シェーク、ドライブ型の攻撃選手だ。
試合が始まる。
彼女は序盤からエンジン全開で襲いかかってきた。
砲弾のようなドライブが、何度も、何度も私のコートを襲う。
私は台から数歩下がり、そしてひたすらにカットで拾い続けた。
しかし、その光景は異様だった。
私が使っているのは、本来攻撃選手が使う、圧倒的な反発力を持つラバー。
普通のカットマンなら到底制御できない、そのじゃじゃ馬のようなラバーで、私は相手の強打を殺し、そして斬り裂いていく。
相手選手の思考が混乱していくのが分かった。
(…なんだ、このカットは…!?)
(普通のカットよりも遥かに速い。そして回転も重いのに、なぜかボールが滑る…!)
そうだ。
これこそが、私の「異質さ」。
攻撃用のラバーで放つ私のカットは、相手のタイミングを僅かに、しかし確実に狂わせる。
相手は、その微妙な違和感に次第にフォームを崩されていく。
スコアは一進一退。
しかし、精神的に優位に立っているのは、私だった。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
焦りから相手が放ったドライブが、ほんのわずかに甘くなった。
回転量が落ち、山なりの軌道を描く。
(…来た)
その一瞬の「隙」。
それまで鉄壁の守備を続けていた私の体の動きが、反転する。
私は台へと一歩踏み込み、それまでの守備的なフォームとは全く異なる、攻撃的なフォームでラケットを振り抜いた!
フォア面の裏ソフトが、風を切る。
放たれたカウンタードライブは、閃光となって、呆然と立ち尽くす相手の横を駆け抜けていった。
静寂。
会場中の誰もが、息をのむ。
守備専門だと思っていたカットマンが放った、あまりにも鋭く、そして重い一撃。
それこそが、「異質のカットマン」幽基未来の、本当の牙だった。
試合の流れは、そこで決まった。
相手はもう、思い切ってドライブを打てない。
強打すれば、あの異質なカットでいなされる。
甘いボールを送れば、あの必殺のカウンターが飛んでくる。
彼女は完全に思考の袋小路に迷い込み、そして崩れていった。
試合終了。
私は静かに一礼し、ベンチへと戻った。
佐藤先生と、そして部員たちが、驚愕と賞賛の入り混じった目で私を見ていた。
私は汗を拭いながら、胸の内で呟いた。
(…見ていてください、しおりさん)
(これが私の戦い方です。あなたのやり方とは違う。でも、これもまた、勝利への一つの「解」)
(あなたの帰る場所は、私が、私のやり方で、必ず守り抜いてみせますから)
私の、孤独な夏の戦い。
その本当の幕が、今、確かに上がったのだ。




