未来の過去
一月の中頃。
窓の外では冷たい木枯らしが吹いている。
しかし、暖房の効いたしおりさんの病室は、穏やかな空気に満ちていた。
私は、彼女のために持ってきてあげた新しい本のページを、静かにめくっていた。
しおりさんはベッドの上体を起こし、その内容に熱心に耳を傾けてくれている。
それが、私たちの新しい「日常」だった。
しかし、その日の私には、どこか落ち着きがなかったのかもしれない。
本を読む声が時折上ずり、ページをめくる指がかすかに震える。
その私の僅かな変化を、彼女が見逃すはずがなかった。
「…未来さん」
彼女が、静かに私の名前を呼んだ。
「何か悩み事?、あなたの思考が少し散漫になっているように感じる…かな。」
その指摘に、私は本を閉じた。
彼女には、嘘はつけない。
私は少しのためらいの後、正直に打ち明けた。
「…いえ。…もうすぐ私たち三年生も引退なので。次の部長を、誰にするべきか考えていて…」
「私には、猛先輩のような人を惹きつけるカリスマ性もありません。ただ状況を分析し、管理してきただけ。この大切な場所を次に任せる人間には、何が必要なのか…分からなくなってしまって」
私はそこで一度言葉を切り、そして自嘲するように笑った。
「…おかしいですよね。そもそも、私自身がなぜ部長になったのかさえ、よく覚えていないのに。誰かを選ぶなんて」
その私の言葉を、彼女は静かに聞いていた。
そして、彼女は私にこう言ったのだ。
その瞳には、どこまでも深く、そして優しい光が宿っていた。
「…聞かせてもらえるかな?、未来さん」
「私が眠っていた、あの夏。あなたがどうやって、あの灰色の体育館でたった一人立ち上がり、そして本当の『部長』になったのか。その物語を」
「もしかしたら、その物語の中に、あなたの探している答えも、あるのかも」
その、言葉。
私の心の中の靄が、すっと晴れていくような感覚。
そうだ。
私は、忘れていた。
私が、どうこの一年を戦ってきたのか。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、眠り続ける彼女に語りかけるように、あの遠い夏の日の物語を、紡ぎ始めた。
「…あれは、しおりさんが倒れてから三ヶ月が過ぎた、夏の暑い一日でした…」
「あの頃、卓球部は、正直に言って崩壊寸前でした。猛先輩はもういなくて。葵さんもあかねさんも、心を閉ざしていた…」
私の声は、静かな病室に響き渡る。
しかし、私の意識はもうここにはなかった。
熱気と湿気、そして絶望だけが支配していた、あの灰色の体育館へと。
私が観測者であることをやめ、初めて当事者として戦うことを決意した、あのはじまりの大会の、夏の日へと戻っていたのだ。




