闇の誘惑
その日の夜。
消灯時間をとうに過ぎた私の病室のドアが、静かにノックされた。
現れたのは、覚悟を決めた顔の佐藤先生だった。
彼は、一つの分厚い封筒を取り出し、私の前に置いた。
「…全ての準備が終わった」
その封筒の中身を見せてもらい、私は初めて全てを知った。
未来さんが一人で学校と対峙していたこと。
あかねさんが探偵のように証言を集めていたこと。
そして、佐藤先生が自らの教師生命を懸けて、明日、教育委員会にこの全てを「告発」しようとしていること。
私の知らないところで、仲間たちがこんなにも危険な戦いを続けていた。
その事実に、私の胸は感謝と、そしてそれ以上の恐怖でいっぱいになった。
(…ダメだ)
(このままでは、先生が潰される)
私は顔を上げた。
そして、そのあまりにも気高い英雄を、静かに、しかしきっぱりとした声で止めた。
「…やめてください、先生」
「…しおり君?」
「その方法は、あまりにもリスクが高すぎる。あなたは全てを失うことになります」
「だが、しかし…!」
「私が倒れたことで、これ以上誰も犠牲になるのは望んでいません。特に、あなたのような正しい大人が消えるのは」
私はそこで一度言葉を切り、そして彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、不敵に笑ってみせた。
「先生。あなたは以前、私があなたに話したことを覚えていますか?」
「『勝つ、というのは、リスクを取る、ということだ』と」
「あ、ああ」と、彼は頷く。
「君のその言葉が、俺に勇気をくれたんだ」
「ありがとうございます」と、私は言った。
「ですが、先生のその作戦は、ただ自爆するだけの無謀な賭けです。それは賢いリスクの取り方ではありません」
「私と一緒に、もっと大きな『山』に賭けてみませんか?誰も傷つかず、そして私たちが全てを手に入れる、もっとずっと確率の高いゲームに」
その、私のあまりにも不遜な言葉に、先生は戸惑っている。
私は彼に、私の「プラン」を静かに語り始めた。
「…明日、あなたは教育委員会には行きません。その代わりに、校長をこの病室に呼んでください。二人きりで話がしたい、と」
「そして、私が彼と取引をします。私の『証言』を人質に」
「私たちが求めるのは、れいかさんの謝罪でも、校長の辞職でもありません。私たちが要求するのは、部の未来を保証するための具体的な『実利』です。コーチの招聘、予算の倍増、そして、部の運営に関する一切の不干渉の約束…」
私のその計画を聞くうちに、先生の顔が青ざめていく。
そして、彼は震える声で言った。
「…しおり君。それは…脅迫じゃないか…!そんな、非道的なやり方…!さ、流石にやり過ぎじゃないか?」
その、彼のあまりにも真っ当な倫理観。
それに対し、私の心の中に眠っていた、もう一人の私が目を覚ました。
夢の中で一つになった、あの私が。
私はゆっくりと首を傾げ、そして心の底から不思議そうに問い返した。
その声は、どこまでも冷徹だった。
「…非道?脅迫?」
「…何か、問題でも?」
「え…」
「そもそも、脅迫されるようなことをしている方が、悪いのではありませんか?」
その一言。
病室の空気が、凍りついた。
佐藤先生は言葉を失い、ただ目の前の少女を見つめている。
その少女の瞳に宿っているのが、被害者のそれではなく、全てを見透かし盤面を支配する、冷酷な「魔女」の光であることに、彼はようやく気づいたのだ。
まず始めに、読者の皆様に、心からのお詫びを。
三日間、予告なく更新を、お休みしてしまい、本当に、申し訳ありませんでした。
正直に申し上げます。 私は少しだけ、執筆から逃げていました。
これから始まろうとしている物語が、あまりにも、暗く、重いものだからです。 作者である私自身が、その泥沼のような絶望に、足を踏み入れる覚悟が、なかなかできずにいました。
第一部は、プロローグだったと、私は以前書きました。 そして、ここから始まる物語こそが、私が、本当に描きたかった、物語です。
それは、綺麗な「勧善懲悪」では、ありません。 胸のすくような「ざまあ」も、ありません。
ただ、一つの罪によって壊されてしまった、人間たちが、出口のない闇の中で、もがき、苦しみ、時に過ちを犯しながら、それでもなお、かすかな光を探そうとする、どろどろの、物語です。
読んでいて、決して気持ちの良いものでは、ないかもしれません。むしろ、皆様の心を、傷つけてしまう、描写も出てくるでしょう。
それでもなお。 この綺麗事では、済まされない、人間の魂の軌跡を、共に見届けたいと、思ってくださる、読者の方へ。 改めて、心からの、感謝を捧げます。 あなたのような、誠実な、読者が、いてくれるからこそ、私は、この、物語を書く、勇気を、持つことができます。
ペースは落ちますが、更新は、本日より再開します。 この、長い長い、夜の物語。 その結末を見つけ出す、その日まで。 どうか、もう少しだけ、しおりたちと、そして、私に、お付き合いいただければ、幸いです。
R・D




