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異端の白球使い  作者: R.D
引き継がれる異端 それぞれの過去

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欠陥品の修理

 一月二日の朝。


 私の意識が、穏やかな眠りの海からゆっくりと浮上した。


 窓から差し込む柔らかな冬の日差しが、部屋を白く照らしている。



(…悪夢を、見なかった)


 その、あまりにも単純な事実に、私の胸は温かいもので満たされた。


 あの一年間、私を苛み続けた父の怒声も、絶望の記憶も、昨夜の眠りの中には現れなかった。


 体の芯に残る心地よい疲労感と、仲間たちの温かい記憶だけが、そこにはあった。


 その日の午後、私の新しい「戦場」であるリハビリテーション室は、いつになく賑やかだった。


 私の隣にはあおが、そして少し離れた場所では、あかねさんと未来さん、そして部長が、理学療法士の斉藤先生の話を真剣な顔で聞いている。


「さて、しおりさん」と、斉藤先生は快活な声で言った。


「今日からの新しいテーマは『体力』です。あなたのその、全国レベルの思考と分析能力に、少しでも追いつけるだけの肉体を取り戻すための、本当の地獄が始まります」


 これまでのリハビリは、神経と筋肉の再接続が主だった。


 指を動かす、腕を上げる、言葉を紡ぐ、そして、立つ。

 しかし、今日からは違う。


 半年間眠り続けていた心肺機能と、完全に落ちきってしまった全身の持久力を、ゼロから、いや、マイナスから作り直す作業だ。


 最初に案内されたのは、平行棒だった。


 しかし、今日の目標は「立つ」ことではない。


「さあ、歩きましょう。まずは、この5メートルを、往復するところから」


 斉藤先生に両脇を支えられ、私は最初の一歩を踏み出した。


 足が、重い。


 一歩進むだけで、心臓が大きく波打ち、呼吸が乱れる。

 たった数歩で、全身から汗が噴き出した。


 後方から、仲間たちの檄が飛ぶ。


「しおり!腕を振って!もっと前に!」とあかねさん。


「未来!ストップウォッチ!」と部長。


「はい。現在、3メートル地点。経過時間、1分12秒。心拍数、推定130…」


「がんばれー!しおりちゃん、自分を信じて!」


 仲間たちの声が、遠くに聞こえる。


 5メートルが、果てしなく遠い。


 これが、今の私の全力。


 なんとか片道を踏破し、その場に崩れ落ちそうになる私を、斉藤先生が支える。


「…はぁ…っ…はぁ…」


 肺が、焼けるように熱い。


 でも、不思議とあの頃のような絶望はなかった。


(…ああ、そうか)


(思考と肉体が、同じ苦しみを共有している)


 かつての、心が肉体の中に閉じ込められていた、あの断絶感はない。


 私の思考が「苦しい」と感じ、そして肉体が「苦しい」と悲鳴を上げている。


 その当たり前の、しかし失われていた一体感が、私にはたまらなく嬉しかった。


 休憩を挟み、次に挑んだのは固定式のエアロバイクだった。


 ペダルに足を乗せるだけで、一苦労だ。


「目標は、3分。一番軽い負荷でいい。ただ、漕ぎ続けることだけを考えて」


 あおに支えられながら、私はゆっくりとペダルを回し始めた。


 一回転、また一回転と、錆び付いた機械が動き出すように。


 しかし、1分が過ぎたあたりから太ももの筋肉が悲鳴を上げ始める。


 呼吸が、絶え絶えになる。


 視界が、白く点滅する。


(…ダメだ…もう、無理…)


 私の足が止まりかけた、その時だった。


 隣で同じようにバイクを漕ぐ、大きな影。


 部長だった。


「…しおり。俺と、競争だ」


 彼は、汗だくのまま、不敵に笑った。


「俺が先に音を上げるか。お前が先に音を上げるか。勝負しようぜ」


 その、あまりにも馬鹿げた挑戦状。


 私の心の中で、もう一人の私が叫んでいた。  


 夢の中で一つになった、あの、私が。


『――走れ。戦え。最適解を示せ』と。


 彼の瞳に宿る本気の光と、私の内から語り書けてくる声が、私の心の奥底で忘れかけていた、闘争心のスイッチを入れた。


「…望むところです。この私に、勝てるとでも…?」


 私は歯を食いしばり、そして再びペダルに力を込めた。


 苦しい。


 でも、負けたくない。


 2分が過ぎ、3分が過ぎた。


 斉藤先生の制止の声も、もう聞こえない。


 ただ、隣で同じように苦しそうな息を吐きながらペダルを回し続ける、彼の存在だけが私を支えていた。


 やがて、どちらからともなく私たちの足が限界を迎え、止まった。


 私たちはバイクのハンドルに突っ伏し、ただ荒い息を繰り返す。


「…はぁ…はぁ…。俺の、…勝ち、だな…」


「…いいえ…。私の、勝ち、です…」


 その途切れ途切れの会話に、あかねさんたちの呆れたような、そしてどこまでも優しい笑い声が重なった。


 私の、新しい地獄のリハビリ。


 それは一人では決して乗り越えられない、過酷な道のり。


 でも、その地獄の隣には、もうこんなにも頼もしい仲間たちがいるのだ。


 その確かな事実だけが、疲弊しきった私の体を、温かく包んでいた。

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