魂の棋譜(2)
部長の背中から降りて、隣のベンチに腰を下ろす。
眼下に広がる街の景色は、夕焼けに染まってとても綺麗だった。
でも、私の目はその景色ではなく、隣に座る部長の横顔を見ていた。
「…去年はあんなに息を切らせていたのに。ずいぶんと体力がつきましたね、部長」
私がそう言うと、彼は照れたようにそっぽを向いて、「…うるせえ」と呟いた。
彼のそういう、子供っぽいところが、少しだけ好きだった。
「私にとっては、半年前の時間感覚ですけどね」
「…そうか」
「ええ、全く。気がついたら夏になっていて。…最初は笑えませんでしたよ」
あの病院のベッドで目覚めた時。
時間の感覚が完全に麻痺していて、季節が大きく変わっていることに気づいた時の、あの奇妙な感覚は今でも鮮明に覚えている。
「しおり…」
彼が何かを言いかけたのを、私は遮った。
今、私が話したいのは、彼の心配や慰めの言葉ではない。
ただ、私の見てきたものを、感じたものを、彼に伝えたい。
それだけだった。
「…私が眠っていた間の話をします」
私は夕焼けの空を見上げながら、静かに語り始めた。
あのどこまでも続く、暗闇の宇宙。
そこで出会った、もう一人の自分。
過去の記憶を映し出すスクリーン。
光と闇の狭間で、揺れ動いた私の心。
言葉を選びながら、私は夢の中で体験した全てのことを彼に話した。
楽しかった、あおとの出会い。
心を引き裂かれた、父との記憶。
そして、全てを終わらせようとした、あの時の絶望。
語るうちに、何度も喉が詰まりそうになった。
あの時の感情が鮮やかに蘇ってきて、胸が締め付けられるようだった。
でも、私は目を逸らさなかった。
全てを、知ってほしかったから。
私の心の奥底に潜む、光と闇の全てを。
「…影は、私に選択を迫りました」
「痛みを伴う光の世界か。安らかな闇の世界か、と」
「私は闇を選びそうになった。…でも、最後に思い出したのです。あおと交わした約束を。私の命は、もう私だけのものではないと」
あの時、本当にあと一歩で、私は全てを諦めていただろう。
あの甘美な誘惑に身を任せていたら、今の私はここにいなかったかもしれない。
そう思うと、ゾッとする。
そして、最後の試合。
もう一人の私との、魂のぶつかり合い。
全てを受け入れ、そして前に進むと決意した、あの瞬間。
「…そうして、私は目覚めました」
話し終えると、私の心は嘘のようにすっきりとしていた。
まるで、重い荷物を下ろしたみたいに。
隣で部長がどんな顔をしているか、見なくても分かった。
彼はきっと驚いているだろう。
そして、少しだけ心配しているかもしれない。
彼が、「…そうか」とやっとのことで言葉を絞り出した時、私は初めて彼の方を見た。
彼の瞳には、驚きと、そして深い理解の色が宿っていた。
「…お前は、ずっと戦ってたんだな。俺なんかより、ずっとすごい場所で」
彼のその言葉が、胸にじんわりと染み渡る。
彼もまた、彼なりの戦いを続けてきたのだ。
違う場所で、違う方法で、でも同じように苦しみ、そしてもがいてきたのだ。
だから、私は彼に微笑んだ。
あの全国の頂点で、彼に見せたとびっきりの笑顔で。
「はい。だから、もう部長が一人で苦しむ必要はないのです」
「これからは私も一緒に、その荷物を背負いますから」
私のこの言葉が、彼の心の奥に少しでも届けばいいと、そう願いながら。
私たちは夕焼け空の下、しばらくの間何も言わずに並んで座っていた。
過ぎ去った一年に、そしてこれから始まるであろう新しい年に、思いを馳せながら。
私たちのリハビリは、まだ始まったばかりだ。
でも、もう一人じゃない。
その確かな温かさが、私の心を静かに満たしていく。




