暴かれる虚像
その日の夜も、俺は一人、体育館で走り続けていた。
汗が目に入り、滲みる。
肺が、鉄の匂いがする。
この肉体的な苦痛だけが、俺の心の中のあの泥沼のような罪悪感を、ほんの一瞬だけ忘れさせてくれた。
「――まだ、やっていたのね」
その凛とした声に、俺ははっと足を止めた。
体育館の入り口に立っていたのは、小笠原だった。
彼女も俺と同じ練習着に身を包んでいる。
「…お前には、関係ないだろ」
俺は息を弾ませながら、吐き捨てるように言った。
「ええ、関係ないわ」と、彼女は平然と答える。
「でも、都合がいい。私もこれからトレーニングをするところだったから。…付き合いなさい。私の練習に」
「断る。俺は一人でやる」
「なぜ?」
「その方が集中できる」
「嘘ね」
彼女の、その全てを見透かしたような一言に、俺は言葉を失った。
彼女はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして、俺の目の前で足を止めた。
「あなた、おかしいわよ」
「…何がだよ」
「その練習。強くなるためのものではないわ。ただ、自分を痛めつけているだけ。まるで何かから逃げているみたいに」
その、的確すぎる指摘。
俺は、彼女のその鋭い瞳から目を逸らした。
だが、彼女は逃してはくれなかった。
「私は、静寂さんと、もう一度戦うと約束した。そのために、私はもっと強くならなければならない。あなたのその無意味な自傷行為に付き合っている暇はないのよ」
「だから、教えなさい。あの日、あの全国大会の後。あなたたちの身に、一体何があったのか」
その問い。
俺は、彼女を睨みつけた。
「…お前には関係ない、と言ったはずだ」
「いいえ、関係あるわ」と、彼女は一歩も引かない。
「あなたがそんな腑抜けた状態でいることは、私としおりの約束の邪魔になるの。…だから吐きなさい。あなたが背負っている重荷の全てを」
その、あまりにも高飛車で、そして揺るぎない彼女の瞳。
俺は、観念した。
こいつからは、逃げられない。
俺は体育館の冷たい床に座り込んだ。
そして、語り始めた。
あの日の出来事を。
思い出したくもない、あの地獄の光景を。
感情を殺し、ただ淡々と。まるで他人事のように。
「…三学期の始業式の日だった」
俺は語った。
未来が、俺たちを呼びに来たこと。
俺たちが見た、あの空き教室の惨状を。
そして、血を流し、倒れていた、しおりの姿を。
俺は、語った。
校長室で何が起きたのか。
校長がいかにして、あの「事件」を「事故」へと捻じ曲げたのか。
俺たちが、いかに無力だったのか。
俺が話し終えるまで、彼女はただ黙って俺の言葉を聞いていた。
その表情は変わらない。
しかし、その瞳の奥で、静かな怒りの炎が燃え盛っていくのを、俺は確かに感じていた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼女は一言だけ呟いた。
その声は、氷のように冷たかった。
「…なるほど。腑抜けているのは、あなただけではなかったというわけね。あなたの学校の大人たちも、全員腐っている」
そして、彼女は俺に向き直った。
その瞳には、新しい光が宿っていた。
それは、ただの闘志ではない。
共有された秘密と、そして共通の「敵」を見つけた、共犯者の光だった。
「…決めたわ、猛」
「あなたのその無駄な罰には、私が付き合ってあげる。あなたが立ち直るまで、私がそのサンドバッグになってやるわ」
「ただし、条件がある。あなたは、私の練習にも付き合うこと。いいわね?」
その、あまりにも一方的な提案。
しかし、不思議と嫌な気はしなかった。
俺は、ふっと息を漏らし、そして少しだけ笑った。
「…ああ。望むところだ」
俺たちの奇妙な共闘関係は、その夜から始まった。
俺の孤独な「罰」は終わらない。
だが、「試練」へと挑む同行者が一人、増えることになった。




