逃亡者 (2)
五月雨高校の入学式。
体育館の壇上で、新入生代表として挨拶をしている女子生徒の声が、やけに遠くに聞こえる。
周りのやつらは、皆キラキラしていた。
新しい生活への希望。
新しい出会いへの期待。
その眩しい光が、俺の心をちくちくと刺す。
俺の心の中は、あの日からずっと濁ったままの泥沼だ。
自己紹介で俺が第五中学からスポーツ推薦で来た、と告げた瞬間、教室がどよめいた。
「あの、全国優勝の…!」「すげえ!」
賞賛の声。羨望の眼差し。
その全てが、俺にとっては耐え難い拷問だった。
(…違う。俺は、英雄なんかじゃない)
(俺は、ただの逃亡者だ)
放課後。
俺は、卓球部の体育館の前に立っていた。
中からは、これまで聞いたこともないほどハイレベルな打球音が響いてくる。
さすがは全国区の強豪校。
俺は、重い扉を開けた。
「お、来たな!お前が、猛か!」
体格のいい先輩が、にこやかに俺を歓迎してくれる。
「全国チャンプのお手並み拝見といくか!」
その言葉に、体育館中の視線が俺に集まる。
その中に、見覚えのある顔があった。
長い髪。
気高く、そしてどこか他者を寄せ付けないその佇まい。
小笠原。
そうだ。あの全国大会の準決勝で、しおりに負けたやつだ。
彼女も、この学校だったのか。
俺がそう思考した、その時。
彼女が、まっすぐにこちらへと歩いてきた。
その瞳には一点の曇りもない。
相変わらず、高飛車な女王様、という感じだ。
「…部長猛、でしたね。奇遇ね、またお会いするとは」
「…ああ」
俺は、短く答える。
すると彼女は、何の悪意もなく、ただ純粋な興味として、そのナイフを俺の心臓に突き刺した。
「あれから、静寂さんは元気にしていた?」
その名前。
俺の頭の中で、あの日の光景がフラッシュバックする。
血の匂い。
葵の絶叫。
そして、俺の無力な、手。
俺は彼女から視線を逸らし、言葉を濁した。
「…さあな。あいつとは部活が同じだっただけだ、よく知らねえよ」
俺のその不自然な態度に、小笠原は少しだけ眉をひそめたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
その会話の後。
俺は誰とも目を合わせず、ただ黙々と、隅で素振りを繰り返した。
周りの期待に満ちた視線が、痛い。
小笠原の探るような視線が、痛い。
そして、何よりも。
この場所にいないはずの、しおりや葵の幻影が、俺を責め立てる。
その日の練習が終わった後。
俺は、誰よりも遅く体育館に残った。
そして、一人走り始めた。
体育館の周りを、何度も、何度も。
息が切れ、足がもつれ、倒れそうになっても、止まらない。
(…足りない)
(まだまだ、足りないんだ)
(俺がもっと強ければ。俺がもっと圧倒的に強ければ、あんなことには…!)
罪悪感を振り払うように。
過去の亡霊から逃げるように。
俺は、ただ走り続けた。
東京の夜の闇の中で、俺の新しい、そして孤独な「罰」が静かに始まった。




