拭いきれない血糊
応接室から解放された後。
先生が心配そうに、俺たちに「家まで送っていくぞ」と声をかけた。
しかし、俺はその手を振り払った。
「…いえ。一人で帰れますから」
その声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
今の俺には、もう全ての大人たちが、あの校長と同じ嘘つきに見えていた。
彼らのその、同情的な優しささえもが、全て偽善に思えた。
俺は、未来と、まだ虚ろな目をしたままの葵に一言だけ「じゃあな」と告げ、一人、夜の道を歩き始めた。
最初は、校長へのどうしようもない怒りだけが頭を支配していた。
あの男は許せない。絶対に。
しかし、歩き続けるうちに。
冷たい夜風が頭を冷やすにつれて、その怒りは別の、もっと熱くドロドロとした感情へと姿を変えていった。
罪悪感。
(…なんでだよ…)
(なんで、俺はまたこうなんだ…!)
脳裏に蘇るのは、血を流して倒れていた、しおりの姿。
俺が守ると誓ったはずの、大切な仲間。
(…守る、と誓ったじゃねえか)
その誓いが、空っぽの言葉となって俺の胸に突き刺さる。
(風花の時と同じだ…いや、それ以上だ…!)
そうだ。俺は何も学んでいない。
何も変わっていない。
どれだけ体を鍛えても。
どれだけ大きな声を出しても。
結局、俺は目の前で大切な仲間が傷ついていくのを、見ていることしかできない無力なガキのまま。
その思考が頭に浮かんだ瞬間、俺は走り出していた。
迫り来る後悔と罪悪感の巨大な波から、逃げるように。
心臓が張り裂けそうだ。
肺が焼けるように痛い。
でも、足を止めることはできなかった。
止まってしまえば、その黒い波に飲み込まれてしまうから。
息も絶え絶えに家にたどり着き、俺はそのままシャワー室へと駆け込んだ。
熱い湯を頭から浴びる。
それでも、頭の中のあの光景は消えてくれない。
やがてシャワーを終え、風呂場から出る。
着替えを済ませ、そして何気なく洗面台の鏡を見た、その時。
俺は、息をのんだ。
鏡に映る、俺の両手。
それが、べっとりと赤い血で濡れていたのだ。
「…なっ…!」
俺は慌てて自分の手を見る。
しかし、そこに血などついていない。
もう一度、鏡を見る。
そこには、やはり血まみれの手が映っている。
あの時、しおりの傷口を押さえた、あの生々しい血糊。
俺は蛇口をひねり、必死にその手を洗い始めた。
ゴシゴシと石鹸をつけて、何度も、何度も洗う。
だが、鏡の中の血は落ちない。
落ちない。
落ちない!
落ちない!!
俺はついに洗い流すのを諦め、そして自室のベッドへと潜り込んだ。
目を閉じても、眠れるはずがなかった。
瞼の裏に焼き付いているのだ。
倒れている、しおり。
泣き叫ぶ、葵。
崩れ落ちる、未来。
そして、俺の血まみれの、手。
その光景が、何度も何度もフラッシュバックする。
どれくらいの時間が経っただろうか。
心身ともに疲弊しきった俺の意識が、ようやく途切れかけた、その頃。
部屋のカーテンの隙間から、朝日が差し込んできた。
新しい一日が、始まってしまった。
この地獄の、続きが。
そのあまりにも無慈悲な光の中で、俺はただ固く目を閉じることしかできなかった。




