疑心の種
救急車が去っていった後。
後に残されたのは、血の匂いが充満した静かな教室と、そして魂が抜け殻になった俺たちだけだった。
葵は床に座り込んだまま、ぴくりとも動かない。未来は、その隣でただ静かに彼女の背中をさすっている。
俺は、自分の血に濡れた手を、ただじっと見つめていた。
その静寂を破ったのは、慌ただしい足音だった。
息を切らせて教室に入ってきたのは、学年主任の先生だった。
彼は室内の惨状と俺たちの姿を見て息をのんだが、すぐに冷静さを取り戻し、そして努めて優しい声で言った。
「…もういい。君たちは、もうここにいるな。応接室へ行きなさい。…さあ、立つんだ」
俺たちに拒否権はなかった。
未来が、ほとんど人形のようになった葵の腕を引き、俺もそれに続く。
鈴木先生に導かれるまま、俺たちは一階の応接室へと通された。
ふかふかのソファ。磨かれたテーブル。
そのあまりにも場違いな空間で、私たちはただ黙って座っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ドアが開き、校長が入ってきた。
彼の表情は、深い悲しみと心配の色で満ちていた。
「…みんな、辛かっただろう。怖い思いをしたね」
その、あまりにも優しい慰めの言葉。
しかし、その言葉が俺の心には、なぜか全く響かなかった。
「静寂さんのことは本当に残念だ。今はただ、彼女の無事を祈ろう。学校としても、できる限りのサポートは約束する。君たちの心のケアも含めてね」
彼は一人一人の顔を見ながら、ゆっくりと、そして言い聞かせるように続けた。
その声は、どこまでも穏やかだった。
「先生方から話は聞いたよ。放課後、教室の片付けをしていた静寂さんが、不慮の事故で転倒し、頭を打ってしまった、と。…本当に、痛ましい事故だった」
事故。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で何かがプツリと切れる音がした。
(…事故…?)
(違う。あれは、事故なんかじゃない)
(あいつの首には、明らかに絞められた跡があった。切り傷もあった。あれは、誰かが意図的に…)
俺が何かを言いかけた、その時。
校長の目が、初めて俺の目を真っ直ぐに捉えた。
その瞳。
口元は優しい笑みを浮かべている。
しかし、その瞳の奥に宿っていたのは、氷のように冷たく、一切の感情を排した、「何も言うな」という無言の圧力だった。
その二面性に、俺は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
彼は、続けた。
「幸い、現場には君たちが居合わせ、すぐに救急車を呼んでくれた。ありがとう、不幸中の幸いだったね」
「今は、憶測で物事を語るべきではない。静寂さんが一日も早く回復することを、ただ祈ろう。いいね?これは、事故なんだ」
その、念を押すような一言。
俺は、そこで全てを理解してしまった。
この男は、真実を探す気などない。
この男は、犯人を見つけ出す気などない。
この男がしたいのは、ただ一つ。
「全国優勝校」という輝かしい名声に傷がつくこの「不祥事」を、ただの「事故」として、この応接室の中に完全に葬り去ること。
その、あまりにも醜く、そして冷徹な大人の論理。
その絶対的な権力の前に、俺は何も言えなかった。
俺が、あの日感じた無力感とはまた質の違う、もっと冷たく、そしてどうしようもない絶望が、俺の心を支配していく。
俺たちの本当の「敵」は、しおりを傷つけた犯人だけではない。
この真実さえも平然と握り潰そうとする、この組織そのものなのだ、と。
その途方もない事実に、俺はただ歯を食いしばることしかできなかった。




