悪戯
夕暮れの病院の廊下に、二つの影がゆっくりと伸びていく。
それはもう、孤独な影ではなかった。
私の病室に戻ると、部長は慣れた手つきで車椅子にブレーキをかけた。
私は何も言わずに、ベッドの方を指差す。
その無言の「お願い」に、彼は一瞬、何をすべきか迷ったようだった。
しかし、次の瞬間。
彼の口元に、あの全国の頂点で見せたような、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
久しぶりに、彼の中のイタズラ心が疼いたのだろう。
「…よっと」
「――え…?」
彼は掛け声と共に、私の体をひょいと横抱きにした。
いわゆる「お姫様抱っこ」だった。
突然の浮遊感。私を包む、彼の大きな腕の感触と、汗の匂い。
私の思考がフリーズする。
こんな密着、ありえない。
私の顔にカッと熱が集まっていくのが分かった。これが、きっと「恥ずかしい」という感情。
「ちょっ…!部長、何を……!?」
きっと私は顔が真っ赤になっているのだろう。
「はははっ!可愛い顔も出来るんじゃねーか!」
彼が私をお姫様抱っこし、ベッドに歩きだした、まさにその瞬間だった。
カチャリ、と音を立てて病室のドアが開いた。
検診に来たらしい看護師さんだった。
彼女は、私たちのそのあまりにも少女漫画のような光景を見て、ぴたりと動きを止める。
「…あ、あら…お取り込み中、だったかしら…?」
「ち、ちが…!これは、その…!」
部長の顔が、夕焼けのように真っ赤に染まっていく。
そのあまりの狼狽ぶりに、私の心の中に彼と同じイタズラ心が芽生えた。
さっきまでの、お返しだ。
看護師さんが気まずそうに、私の検温を始める。
「…ふふっ。仲がいいのね」
その言葉に、私は平然と、そしてどこまでも穏やかな声で答えた。
「ええ。彼は私の、特別な人ですから」
「ぶっ…!?」
隣で部長が吹き出す音がした。
「しおりっ!?」
私は、人差し指を口の前で立てて、あおの真似のように、悪戯っぽく笑った。
看護師さんは「あら、あら」と楽しそうに笑っている。
検診が終わり、彼女が「お大事にね」と言って部屋を出ていくまで。部長は耳まで真っ赤にしたまま、石のように固まっていた。
ドアが閉まり、部屋に静寂が戻る。
部長が、呆れと恥ずかしさが混じった声で私に言った。
「…おい、しおり。看護師さん、完全に誤解してたぞ…」
「あなたが私をからかうからですよ」
私は、バッサリと言い返す。
そのやり取りに、私たちはどちらからともなく、ふっと笑みを漏らした。
温かい空気。
しかし、私はその空気を断ち切るように、真剣な表情で彼を見つめ直した。
ここからが、本題だ。
「…部長。なぜ、あんな無茶な練習をしていたのですか。東京まで行って」
「…!」
「凛月さんから聞きました。あなたが自分に罰を与えるように、体を痛めつけていた、と」
私のその問いに、彼は視線を逸らした。
私は静かに、そして有無を言わせぬ声で続けた。
「…話してください、部長。私が眠っていた間に、何があったのか。その全てを」
私の、真っ直ぐな瞳。
彼はもう、逃げられないと悟ったのだろう。
彼はゆっくりと息を吸い込み、そして観念したように話し始めた。
その表情には、もう罪悪感の影はなかった。
全てを打ち明ける覚悟を決めた、一人の男の顔だった。
「…分かったよ、しおり。全部、話す。あれから、俺たちの卓球部に、何が起きたのか…」




