引き継がれた異端の目
ある日の放課後。
第五中学卓球部の体育館の扉が、静かに開いた。
部員たちの視線が、一斉にそちらへと注がれる。
そこにいたのは、車椅子に座る私と、
その車椅子を押す、五月雨学園のジャージを着た小笠原凛月だった。
体育館が、どよめきに包まれる。
あの全国大会の準決勝で死闘を繰り広げた二人の天才が、今、同じ空間にいる。
そのあまりにも非現実的な光景に、誰もが言葉を失っていた。
「さあ、始めましょうか」
凛月さんが静かにそう言って、コートの前に立つ。
彼女は、あの日私と交わした約束を、律儀に果たしに来てくれたのだ。
彼女と未来さんが中心となり、一年生たちの指導が始まる。
凛月さんの指導は、まさしく「王道」だった。
力強く、無駄のないフォーム。
論理的で、そして一切の妥協を許さないその言葉。
一年生たちは、その本物のトッププレイヤーが放つオーラに圧倒されながらも、必死にその教えを吸収しようとしていた。
私は、その光景をコートの隅から静かに観測していた。
そして、私の頭脳はまた、無意識のうちに働き始める。
(…あの子のバックハンドの角度。凛月さんの指導は正しい。しかし、彼の肩の可動域を考慮すれば、もう少し打点を前にした方が効率的だ…)
(あちらの子はフットワークに迷いがある。原因は思考の遅延ではない。単純な一歩目の踏み込みの甘さ…)
その分析結果を、私は隣にいる未来さんにそっと囁く。
未来さんは静かに頷き、そして的確なタイミングで、一年生たちにそのアドバイスを伝えていく。
王道と異端。
そして、その二つの思考を繋ぐ「未来」。
奇妙で、しかし完璧な指導体制が、そこに生まれていた。
休憩時間。
一年生たちが、私の元へと駆け寄ってきた。
その瞳は、興奮と好奇心でキラキラと輝いている。
「しおり先輩!俺たちとも打ってください!一球だけでいいんで!」
その、純粋な願い。
私は、凛月さんと未来さんの顔を見た。二人は静かに頷いてくれる。
私は、ゆっくりと車椅子から立ち、一歩一歩、コートの中へと進めた。
一人、一球。
それが、今の私にできる最大限だった。
最初の一年生が私の前に立つ。その瞳に、私を気遣うような色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。
彼が放ったのは、山なりの緩いボール。
私の体に負担をかけないように、という優しい嘘。
私は、そのボールを見逃し、静かに彼に告げた。
「…私の体に気を遣っている余裕が、あなたにありますか?」
その氷のような一言に、一年生の顔が引き締まる。
彼は深く一礼し、そして今度は、本気のサーブを打ってきた。
速い。
回転もかかっている。
うん。筋はいい。
しかし。
あまりにも、正直すぎる。
変化技への経験が、圧倒的に不足している。
私はそのボールの軌道を完璧に予測し、そして最小限の動きでラケットを合わせた。
アンチラバーの面でボールの威力を殺し、ネットのすぐそばにぽとりと落とす。
完璧なストップ。
彼は、反応すらできなかった。
次々と、一年生が私に挑んでくる。
私は、その全てのボールを、ただ淡々とストップだけでいなしていく。
動かない体。
その制約の中で、これが最も合理的な戦術。
だが、私の心の中は穏やかではなかった。
(…今だ。ここでラケットを翻せば、カウンターが決まる)
(…違う。この軌道なら、アンチでのプッシュの方が効果的だ)
(ああ。ここで、ドライブを放つことができれば…!)
私の頭脳は、いくつもの必殺の「解」を導き出す。
しかし、私の体は、そのどの指令にも応えてはくれない。
その、もどかしさ。
その、歯痒さ。
私の額に、汗が滲む。
全ての一年生との一球勝負が終わる。
私は疲労困憊で、車椅子の背もたれに深く体を預けた。
だが、その表情は晴れやかだった。
(…そうか。これが、今の私なんだ)
不完全で、もどかしく、そして決して一人では戦えない、私。
でも、隣には凛月さんがいる。未来さんがいる。あかねさんがいる。あおがいる。
私の新しい卓球は、ここから始まる。
この最高の仲間たちと、共に。
私は体育館の天井を見上げ、そしてほんの少しだけ笑みを浮かべた。
それは、完全な復活にはほど遠い、しかし確かな希望に満ちた笑顔だった。




