引き継がれる異端
その日、病院に温かい光が差した。
私に、初めて「外出許可」がおりたのだ。
もちろん、時間は数時間だけ。移動は車椅子。そして、未来さんとあかねさんが付き添う、という条件付きで。
久しぶりに外の空気を吸う。
風の匂い。車の音。行き交う人々の声。
その全てが、半年間白い部屋だけで生きてきた私にとっては、あまりにも鮮やかで、そして少しだけ怖い情報だった。
「大丈夫、しおりちゃん?」
「…うん。大丈夫、この空気も久しぶりだなぁ……」
あかねさんの心配そうな声に、私は少しだけぎこちない笑顔で答える。
未来さんは何も言わずに、ただ黙って私の車椅子をゆっくりと押してくれていた。
私たちが向かったのは、もちろん、あの場所だった。
第五中学校、卓球部。
体育館の扉が開かれた、その瞬間。
カツン、カツン、という懐かしい打球音が、私の耳に飛び込んでくる。
練習中だった部員たちの動きが、ぴたりと止まった。
体育館中の全ての視線が、車椅子に座る私一人に注がれる。
静寂。
その静寂を破ったのは、一年生の一人の声だった。
「…し、しおり先輩…!」
その一言をきっかけに、部員たちが一斉に私の元へと駆け寄ってくる。
泣きそうな顔の二年生。
憧れの眼差しを向ける一年生。
その人の輪の中心で、私はただ戸惑いながらも、その温かい歓迎を受け止めていた。
練習が再開される。
私は未来さんとあかねさんに、コートの一番よく見える場所へと車椅子を押してもらった。
やがて、一年生たちが、おそるおそる私の元へとやってくる。
「あの、しおり先輩!もしよかったら、俺たちの練習、見てアドバイスもらえませんか!?」
その、あまりにも真っ直ぐな瞳。
私は、少しだけ困ったように笑い、そして静かに頷いた。
目の前で、一年生同士のハイレベルなラリーが始まる。
私は、ただそれを見ていた。
懐かしいな、と、そう思いながら。
その瞬間だった。
私の頭の中に、それが流れ込んできたのは。
(…右利き、シェークハンド。フォアのドライブの打点が0.2秒遅い)
(インパクトの瞬間、手首が僅かに内側に入る癖。故に、打球はクロス方向へ70%以上の確率で集まる)
(対する相手。バックハンドの守備範囲が狭い。狙うべきはそこだ)
(ボールの回転はかなり上質だ。球質は重い、しかし安定性に欠ける…)
それは、私が意図したものではなかった。
それは、私の脳が無意識に、そして自動的に、目の前の光景をデータとして解析し、そして最適解を弾き出している音だった。
私は、息をのむ。
(…ああ、そうか)
夢の中で私と一つになった、彼女。
あの冷徹で、そして誰よりも強かった「しおり」。
彼女は、消えたのではなかった。
私の中に、生きているのだ。
私は、ラリーを終えた一年生の一人に声をかけた。
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「…あなたのドライブは、とても綺麗。でも、ほんの少しだけボールを引きつけすぎかな」
「もう少しだけ前で。ボールの頂点を捉えるイメージで、打ってみて」
「え…あ、はい!」
彼は戸惑いがらも、私のアドバイス通りに素振りをする。
そして、次のラリーで彼が放ったドライブは、これまでとは比べ物にならないほど鋭く、そして速い一閃となって、相手コートに突き刺さった。
私は、その光景を見ながら、そっと自分の手を見つめた。
この、まだ自由に動かない手。
この、不完全な体。
でも。
私の「武器」は、失われてはいなかった。
それは形を変えて、今も確かに私の中に生き続けている。
彼女が私に託してくれたんだ、闇の中で磨いた、その圧倒的な分析眼を。
私が引き継いだんだ、異端の真髄を。
(……ありがとう)
私は彼女に、心のなかで話しかけながら、一年生の練習を眺める




