再開(5)
あれから、さらに数ヶ月が過ぎた。
季節は夏を越え、秋の気配が病室の窓を撫でる。
私の世界は、ゆっくりと、しかし確実に広がりを取り戻していた。
言語聴覚士の山口先生とのリハビリは今も続いている。
私の口から紡がれる言葉は、もう途切れ途切れの音ではなかった。
診察に来てくれた富永先生に、私は流暢に不満を漏らしていた。
彼は、楽しそうに笑う。
「ははは、君は本当に君のままだね。焦らなくていい。そのもどかしさこそが、君の脳が必死に新しい回路を繋ぎ直している証拠だよ」
言葉は戻ってきた。
思考もクリアだ。
しかし、私の体はまだ重い鎖に繋がれたままだった。
その日、私は理学療法士の斉藤先生と、そして毎日欠かさず通ってきてくれる葵と共に、病院のリハビリテーション室にいた。
広く、そして様々な器具が並ぶその場所。
そこは、私にとって新しい「戦場」だった。
「さあ、しおりさん。今日の目標は、『立つ』ことです」
斉藤先生が、平行棒を指差しそう言った。
立つ。
かつての私なら、呼吸をするのと同じくらい無意識にできていた行為。
それが、今の私にとっては、あまりにも高く、そして険しい頂だった。
車椅子から平行棒の前に移される。
葵が私の正面に立ち、その両手を固く握ってくれた。
「大丈夫、しおり。私が絶対に離さないから」
その太陽のような笑顔が、私の恐怖を少しだけ和らげてくれる。
「いいですか、しおりさん。焦らないで。まずは、自分の足の裏で床を感じることから」
斉藤先生の声に従い、私は震える足に意識を集中させる。
そして、葵の手を支えに、ゆっくりと腰を上げた。
ぐらり、と世界が揺れる。
足が自分の体重を支えきれずに、生まれたての子鹿のようにガクガクと震えた。
全身の筋肉が、悲鳴を上げる。
ダメだ。立てない。
私の心が折れかけた、その瞬間だった。
「しおり!立て!立ってよ!」
葵の、叫ぶような声が響く。
その声は、命令だった。
私を信じ、そして私に戦うことを求める、親友からの魂の命令。
そうだ。
私は、ここで負けるわけにはいかない。
私は、全てを背負うと決めたんだ。
私の瞳に、再び闘志の炎が灯る。
私は歯を食いしばり、そして足の指先にありったけの力を込めた。
ゆっくりと、ゆっくりと、私の体が持ち上がっていく。
そして。
ついに、私の両足が完全に伸び切った。
私は、立っていた。
自分の足で。
この、大地の上に。
視界が高い。
ずっと見上げていた葵の顔が、今、同じ高さにある。
彼女の瞳から涙が溢れているのが見えた。
その涙が、あまりにも綺麗で、私の胸が熱くなった。
数秒後。
私の体は限界を迎え、再び車椅子へと崩れ落ちる。
呼吸は荒く、全身は汗でびっしょりだ。
しかし、私の心はこれまでにないほどの達成感に満たされていた。
斉藤先生が、満足そうに頷いている。
「…ようこそ、しおりさん。地獄のリハビリへ」
その冗談めかした、しかしどこまでも真剣な言葉。
私は、息を弾ませながら、そして笑って答えた。
それは、私の新しい人生の始まりを告げる、力強い第一声だった。
「…望むところです」




