再開(4)
私が初めてあおの名前を呼べたあの日から、一ヶ月が過ぎた。
私の世界は、少しずつ、しかし確実にその輪郭を取り戻し始めていた。
言語聴覚士の山口先生とのリハビリによって、私の喉の錆び付いた歯車はゆっくりと油を差され、今では短い単語であれば、はっきりと発音できるようになった。
「みず」「ごはん」「ありがとう」「ごめんなさい」。
その一つ一つの言葉が私の口から生まれるたびに、葵は子供のように泣いて喜んだ。その笑顔が、私の何よりの原動力だった。
しかし、私の体はまだ石のように重いままだった。
私の思考は、もう宇宙の果てまで飛んでいけるのに。
この肉体は、ベッドという小さな惑星の重力に縛られたままだ。
その日、理学療法士の斉藤先生が私の病室にやってきた。
その隣には、葵だけでなく、未来さんとあかねさんの姿もあった。
「さあ、しおりさん」と、斉藤先生はいつもの快活な声で言った。
「今日は、新しい挑戦をしてみましょう。ベッドの上に、起き上がってみる」
起き上がる。
たったそれだけのことが、今の私にとってはエベレストの山頂よりも高く、そして遠い場所に思えた。
「大丈夫。私たちがついてるから」
あおが、私の手を強く握りしめる。
あかねさんも、「いけいけ、しおりちゃん!」と拳を握っている。
未来さんは何も言わずに、ただ静かに私の瞳を見つめていた。その瞳の奥に、揺るぎない信頼の光が宿っている。
斉藤先生が、ベッドの背もたれの角度を少しずつ上げていく。
その僅かな角度の変化だけで、私の頭に血が下がり、視界がぐにゃりと歪んだ。
(…これが、重力)
半年間、忘れていたこの感覚。
「さあ、ここからだよ、しおりさん」
斉藤先生とあおが、私の両脇に立ち、その背中と腰を支える。
「いくよ。せーので、腕に力を入れて、体を起こしてみよう。せーの!」
私は、ありったけの意志を腕の筋肉に送る。
(…動け。動け、動け、動け…!)
しかし、私の腕はまるで他人のもののように、ぷるぷると震えるだけで言うことを聞かない。
背中の筋肉が悲鳴を上げる。
頭が、割れるように痛い。
「…っ…く…!」
私の喉から、苦悶の声が漏れる。
ダメだ。無理だ。
私の心が折れかけた、その瞬間だった。
「しおり!」
葵の、叫ぶような声が響く。
「思い出して!あなたのドライブを!あなたは、ここからカウンターを打てる!」
その言葉。
私の脳裏に、あの夢の中の試合がフラッシュバックする。
光と闇の中で、私と私が繰り広げた、あの死闘。
そうだ。
私は、諦めなかった。
私は、全てを背負うと決めたんだ。
私の瞳に、再び闘志の炎が灯る。
私は歯を食いしばり、そしてもう一度、腕に力を込めた。
今度は、ただの力ではない。
葵の声援、未来の信頼、あかねの笑顔。
その全ての想いを乗せた、渾身の力。
ぐっ、と私の上半身がほんの数センチ持ち上がった。
視界が変わる。
初めて、自分の目線で仲間たちの顔を見た。
「…ぁ…りが…と…」
私の口から、途切れ途切れの感謝の言葉が漏れる。
それは、たった数秒の奇跡。
すぐに私の体は限界を迎え、ベッドの上に倒れ込む。
しかし、私の心は、確かに感じていた。
私は勝ったのだ、と。
この、重力という名の最初の好敵手に。
私の新しい戦いは、まだ始まったばかりだ。
そして、その戦場には、もう私一人ではない。
その確かな事実だけが、私の疲弊しきった体を温かく包んでいた。




