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異端の白球使い  作者: R.D
第二期 引き継がれる異端

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再開(3)

 私が目覚めてから、一週間が過ぎた。


 その七日間は、私にとって新しい「地獄」の始まりだった。


 私の思考はクリアだ。夢の中で統合された私の心は、冷静にこの現実を分析している。


 しかし、その思考を宿す肉体は、まるで石のように重く、言うことを聞かない。


 指一本動かすことにも、反乱を起こす筋肉。


 言葉を紡ごうとすれば、ただ虚しく漏れる空気の音。


 完璧だったはずの私のシステム。その思考ソフトウェア肉体ハードウェアを繋ぐケーブルが、ズタズタに断線してしまったかのようだ。


 私は、私自身の体の中に囚われた囚人だった。


 毎日、午後になると言語聴覚士の山口先生がやってくる。


 彼女はいつも明るい笑顔で、私に語りかけてくる。


「さあ、しおりさん。今日も、お口の体操から始めましょうか」


 深呼吸。舌を左右に動かす。唇を尖らせたり、横に引いたり。


 かつて、コンマ数秒の判断で世界と戦っていた、この私が。


 今は鏡の前で、赤ん坊のような運動を繰り返している。


 その屈辱感に、私の胸は張り裂けそうだった。


「じゃあ、次は声を出してみましょうか。『あー』って言ってみて」


 私は彼女に促されるまま口を開き、そしてありったけの意志を声帯に集中させる。


(…動け。私の体。音を出せ…!)


 しかし、喉から漏れ出たのは、またしてもか細い息の音だけ。


「…はぁ……」


 悔しさで、涙が滲む。


 その時だった。


 コンコン、と控えめなノックの音と共に、病室のドアが開いた。


 あおだった。


 彼女は、毎日、毎日、こうして私のお見見舞いに来てくれる。


 その顔には心配の色を浮かべながらも、私を励ますように必死に笑顔を作っていた。


 その笑顔を見た瞬間。


 私の心の中に、一つの強烈な衝動が生まれた。


 伝えたい。


 彼女に、伝えたい。


 大丈夫だよ、と。


 ありがとう、と。


 そして、何よりも、彼女のその名前を呼びたい。


 私は、山口先生の制止を無視して、もう一度口を開いた。


 全ての思考を、ただ一つの音のために集中させる。


 私の唇が震える。


 喉の奥の錆び付いた歯車が、軋みながら動き出す。


 腹の底から、ありったけの空気を絞り出す。


 そして。


「………ぁ……ぉ……」


 それは、言葉と呼ぶにはあまりにも不完全な音だった。


 かすれて、弱々しく、途切れ途切れの。


 しかし。


 その音を聞いた葵の瞳が、大きく見開かれた。


 そして、その美しい瞳から大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。


 彼女は私のベッドの傍らに駆け寄り、そして私の手を強く握りしめた。


「…うん…!うん、しおり…!聞こえたよ…!私の名前、呼んでくれたんだね…!」


 あおの涙と、笑顔。


 その手の温もり。


 私の胸に、温かい何かが込み上げてくる。


 私は、そのどうしようもない感情の奔流の中で、もう一度全ての力を振り絞って、その音を紡いだ。


 今度は、もう少しだけはっきりと。


「…あ…お…」


 その、たった二つの音。


 それが、私の新しい人生の始まりを告げる、最初の産声だった。


 私の長い長い戦いは、今、この瞬間から確かに始まったのだ。


 私の太陽の名を呼ぶ、この声と共に。

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