選択の、その先へ
私が放った、その始まりの一球。
ラケットにボールが触れた、その瞬間。
世界が、反転した。
それまで、私を包んでいた、静かな宇宙の闇が、光と混ざり合い、そして渦を巻いていく。
無数の星々が、流れ星となって、私たちの周りを駆け巡る。
光と闇が、まだらに混じり合う、その異様な光景の中で、ネットの向こう側に立つ「影」の輪郭が、急速に、鮮明になっていった。
のっぺりとした仮面が、剥がれ落ちる。
そして、そこに現れたのは、
私と、寸分違わぬ、もう一人の、私の姿だった。
同じ、顔。
同じ、体つき。
同じ、ラケットを握る、指先の癖。
まるで、鏡写しのように、彼女は、そこに立っていた。
ただ一つだけ違うのは、その瞳。
私の瞳には、決意の炎が灯っている。
彼女の瞳には、全てを諦観した、氷の静寂が広がっている。
私が放った、強烈な下回転の、ロングサーブ。
彼女はそれを、完璧なフォームで、ドライブを返球してきた。
ラリーが始まる。
だがそれは、卓球ではなかった。
それは、私と私による「対話」そのものだった。
私が、感情のままに、強打を叩きつければ
彼女は、論理のままに、その威力を殺し、いなしてくる。
卓球では、負けたくない。
その原始的な、意地と意地が、火花を散らす。
私たちは、互いに持てる、全ての手を尽くした。
ラケットを翻し、ドライブに見せかけた、アンチでのアンチドライブ。
デッドストップに見せかけた、鋭い、横回転のツッツキ。
その全ての思考が、完全にシンクロし、そして互いが互いの予測の、上をいく。
長い長い、ラリーの応酬。
そしてついに、その瞬間が訪れた。
彼女が放った、厳しい一球。
それに対し、私の意識が一瞬だけ、相手とシンクロする。
私の思考から、感情が消え去り、ただそこに、完璧な、氷の論理だけが、一瞬だけ乗り移ったかのよう。
相手の打球の回転数、速度、コース。その全てのデータを、瞬時に分析し、そして、導き出した最適解。
それは、彼女が最も得意とするはずの、完全な、無回転のアンチドライブだった。
その、冷徹な一撃が、彼女のコートを打ち抜く。
しかし。
彼女は、それを見て笑った、気がした。
そしてその、氷の瞳が、初めて炎のように揺らめいた。
彼女は、私のその、冷たい一撃に対し、信じられない一球を返してきたのだ。
それは、論理ではない。
それは、分析でもない。
それは「負けたくない」というただ、その一つの想いだけが乗せられた、あまりにも人間的で、そして温かい、魂のドライブだった。
そのボールが、私の胸に、突き刺さる。
(…ああ、そっか)
私はその時初めて、心の底から理解した。
この、試合が。
この、私と私との、対話が。
どうしようもなく、
「楽しい」のだと。
私と貴方。
そのどちらもが、私。
その、どちらもが必死で戦い、そして、生きようとしている。
その事実が、どうしようもなく愛おしい。
私の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
それは、私がずっと忘れていた、心の底からの、本当の笑顔だった。
私たちのラリーは、まだ続く。
光と闇が混じり合い、そして、一つのメロディーを奏でながら。
勝敗など、もうどうでもよかった。
ただこの瞬間が、永遠に続けばいいと、そう願っていた。




