選択(2)
全てが、スローモーションになっていく。
目の前で、私と同じ構えで立つ、影。
その、のっぺりとした顔の向こう側から、声なき声が聞こえる。
『なぜ、闇を選ぶ?』と。
その問いに答えるように、私の心の奥底から、ずっと、蓋をしていた言葉たちが、溢れ出してくる。
(…楽に、なりたい)
(ただ、それだけだった)
(心の痛み。体の痛み。あの、終わりのない地獄から、ただ逃げたかった)
(あの、国道の前に立った時。私は思った)
(飛び出せば、楽になる、と)
(その思考に、恐怖はなかった。むしろ、逆だった)
(「死」は、あまりにも、魅力に溢れていた)
(このまま、何も変わらないという、絶対的な諦観の中で)
(「死」だけが、私が、私の命の使い方を、初めて自分で選択できる、唯一の答えだった)
(どうせ、何も変わらない)
(どうせ、都合のいいことなんて、起きない)
(私はきっと、死にたかったんじゃない)
(ただ、生きていたくなかったんだ)
(このどうしようもない苦痛を抱えたまま、明日を迎える、という行為を、もう続けたくなかったんだ)
(その、全てを解放してくれる、「死」という選択肢は、あまりにも甘美だった)
(私は、なにも考えたくなかった)
(永遠に、眠っていたかった)
(…なにが、悪い!)
(私は、ただ休みたかっただけだ)
(戦い続けることに、疲れてしまっただけだ)
(私は、死にたい訳じゃ、なかったんだ…)
(…楽に、なろう)
(全てを、終わらせよう)
私の心は、完全に、あの甘美な、希死念慮に、支配されていた。
そうだ。それが正しい。それが、唯一の最適解だ。
安らかな「無」に、全てを委ねよう。
その、瞬間だった。
私の脳裏に、一つの光景が、フラッシュバックした。
それは、父の怒声でも、母の冷たい瞳でも、なかった。
それは、小学二年生の、夏の夜。
七夕祭りの、笹の葉。
そこに揺れる、二枚の短冊。
一枚は、私の字だ。
拙い文字で、こう書かれている。
『あおの願いが、叶いますように』と。
そして、その隣で揺れる、もう一枚の短冊。
それは、あおの字。
『大好きな人と、一生、一緒にいられますように』
その、記憶。
その、約束。
その、祈り。
(…私の生は、私のものだけではなかった)
(私の、命の使い方は、私一人が決めていいものでは、なかったんだ)
(私の「生」は、あおの「生」と交わってしまった。あの日、あの教室で、私が、彼女に声をかけた、あの瞬間から、ずっと)
(もし私がここで「闇」を選んだら。もし私が、この命を終わらせてしまったら)
(それは、あおのあの、純粋な願いを、私自身の手で踏みにじる、ということだ)
(それは、彼女の人生に、永遠に消えることのない傷を、刻み込むということだ)
(…それだけは、できない)
(それだけは、絶対にしては、いけない…!)
白球が、私のコートにバウンドし、私へ選択を迫る。
その軌跡は、私への、最後の問いのようだ。
光か、闇か。
どちらを選ぶのか、と。
しかし。
その、瞬間だった。
私は、思い出した。
この、試合のスコア。
1-0で、私が取った。
1-1に、追いつかれた。
2-1で、私がリードした。
そして、2-2に追いつかれた。
そうだ。スコアは、2-2。
ならば、次の、サーブ権は、
(…私だ)
私は、動いていた。
私のコートに鋭く突き刺さるサーブ、左手を伸ばし、白球を、空中で掴み取った。
影の動きが、ぴたりと止まる。
私は、ゆっくりと立ち上がり、そして、掴んだ、ボールを、掲げ、影を、睨みつけるように、呟いた。
「…私の、サーブだよ」
その声は、震えていなかった。
私の心の中の霧が、晴れていく。
(光か闇か。あなたは、そう言ったね)
(私が、生きることで手に入れた、温かい光の世界か)
(私が、全てを終わらせることで手に入れる、安らかな、闇の世界か)
(…でも、違う)
(私は、もう知っている)
(あの、地獄のような闇がなければ、私の、この強さは、生まれなかった)
(そして、あの温かい光がなければ、私のこの強さは、とっくに、私自身を破壊していた)
(どちらか一つを選ぶなんて、できない)
(どちらか一つを捨てるなんて、間違っている)
(光も闇も、優しさも、痛みも希望も、絶望も)
(その全てが、私なんだ)
私は、ボールを、高く高く、トスする。
私の、新しい人生の始まりを、告げるサーブ。
(私は、選んだりしない)
(私は、全てを背負って、歩く)
大袈裟に構える、テイクバックのモーションから、鋭いサーブを構える。
その一球は、もはや、どちらかの世界に、打ち込まれるのではない。
それは、光と闇の、その境界線を切り裂き、そして、全く新しい道を作り出す、始まりの一球だった。
ボールがラケットに触れた、その瞬間。
宇宙が、光と闇に満たされる。




