選択
その、構え。
それは、鏡に映した、私自身の姿、そのものだった。
(…なんだ、これは…?)
私の思考が、今度こそ、本当の意味でフリーズする。
模倣?いや、違う。
あれは、ただの模倣ではない。
ラケットを握る、指先の角度。
僅かに体重が乗せられた、つま先の位置。
そして何よりも、その構えから放たれる、一切の、感情を排した、冷たい圧力。
あれは、私だ。
私が知っている、私。
父の暴力に耐え、母の裏切りに、心を殺し、そして、あおを突き放した、あの頃の。
「氷の壁」を、完璧に作り上げた、あの頃の私そのものだ。
影が再び、サーブを構える。
そのモーションは、やはり、私のそれと、寸分違わない。
しかし、その動きを、今こうして、客観的に見て、私は、初めて気づいた。
その、完璧なフォームの奥に隠された、あまりにも深い絶望と、そして、諦観に。
影は、何も言わない。
しかし、その顔の向こう側から、私に問いかけてくる声が、聞こえるようだった。
『本当に、それでいいの?』と。
私の脳内で、全てのピースが、繋がっていく。
ああ、そうか。
この、影の、目的。
この、試合の、本当の意味。
この「影」は、私を苦しめるために、過去の記憶を、見せているのではない。
彼女は私に「選択」を、迫っているのだ。
彼女はまず、私に、あおと出会った、あの温かい記憶を、見せた。
それは、私が生きることで手に入れた、かけがえのない「光」の、記憶。
次に彼女は、私に、父の暴力と、母の裏切りという、あのトラウマを見せた。
それは、私が心を閉ざすきっかけとなった「痛み」の記憶。
そして最後に、彼女は、私に、自ら命を絶とうとした、あの絶望を、見せた。
それは、私が、全ての痛みから逃れるために、選び取ろうとした、「無」への渇望。
光と闇。
その両方を、私に見せた上で、彼女は今、私に問いかけている。
『あなたは、全てを見て、全てを思い出した』
『その上で、もう一度聞く。あなたが、本当に望むのは、どちら?』
『あの温かい、しかし、痛みを伴う、光の世界か。あるいは、この、全ての苦しみから解放される、静かで安らかな、闇の、世界か』
影が、サーブを打つ。
そのボールは、まるで、私への、最後の問いのようだ。
私は、ラケットを握りしめる。
私の手は、震えていた。
そうだ。
あの時私は、確かに「死」を選んだ。
それが唯一の、正しい答えだと信じて。
では、今の私は?
あおの温もりを、再び知ってしまった、私は?
仲間という光に、触れてしまった、私は?
分からない。
分からない、分からない、分からない。
私の思考は、答えの出ない問いの迷宮を、永遠にさまよい続ける。
目の前では、影が静かに、私を待っている。
私が、この試合の、そして、私の人生の、最後の一球を、どちらの世界に、打ち込むのかを。




