胡蝶の夢 (4)
私の瞳から、止めどなく溢れ出す、後悔の涙。
ごめんね、あお。ごめんね。
その、言葉にならない謝罪だけが、私の心を支配していた。
だが、ネットの向こう側に立つ影は、そんな私の感傷など、意に介さない。
彼女はまるで「泣いている暇などない」と、言うかのように、静かに、そして鋭いサーブを、放ってきた。
その、モーション。
どこかで見たことがある。滑らかで、無駄がなく、そしてコースが、全く読めない。
私の思考の片隅で、かすかな違和感が、生まれる。
だが、今の私には、それを分析する余裕は、なかった。
私の心は、後悔と、自己嫌悪の炎で、燃え盛っている。
その感情の全てを、叩きつけるように、私は返ってきたボールを、強く強く、打ち返した。
思考ではない。ただ、本能のままに。
しかし影は、私のその、荒れ狂う強打を、嘲笑うかのようだった。
彼女は、一歩も台から下がらない。
ひらりひらりと、ラケットを操り、私の強打の威力を、完璧に殺し、そして、台上で、短く鋭く、左右に揺さぶってくる。
私は、無我夢中で、それに食らいついた。
速い。速すぎる。
思考が全く、追いつかない。
そして、ラリーが数本続いた、その瞬間。
影が、私のフォアサイドに、深く突き刺さるドライブを見せ球に、私の体勢を崩す。
そして、甘く返ってきたボールに対し、彼女が放ったのは、強打ではなかった。
全ての力を殺した、無慈悲なまでの、ストップ。
白い球が、私のコートで、一度、そして二度、弾んだ。
ネットの、すぐそばで。
ツーバウンド。 完全な読み負け。完全な失点。
その、白い球が、床に落ちる、その光景をスローモーションで見ながら。
私の脳内で、忘れていたはずの記憶のリールが、回り始めた。
そうだ。
あの日も私は、こうやって、全てを失ったんだ。
「…いい加減にして」
「あなたのせいで、迷惑してる。もう二度と、私の前に、現れないで」
あおの手を振り払い、走り去った、あの帰り道。
彼女の、涙に濡れた顔が、頭から離れない。
ごめんね、ごめんねと、心の中で叫びながら。
私は一人、暗い部屋で、膝を抱えた。
父の暴力。母の冷たい目。そして、あおを失ったという、絶対的な孤独。
もう、何もかも、どうでもよかった。
楽に、なりたかった。
その日の朝。
私は、交通量の多い、国道に立った。
一台のトラックが、近づいてくる。
(…これで、終われるんだ)
私は目を閉じ、そして、その前に、飛び出した。
耳を劈くような、急ブレーキの音。
体に走る、強い衝撃。
宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる、私の体。
薄れゆく意識の中で、私は考えていた。
死ぬ、って、こんなに、痛いんだ。
でも、これでやっと、楽になれる…。
その、記憶。
私が必死に、心の奥底に封じ込めていた、最も醜く、そして弱い、私の姿。
私は、その宇宙空間で、ゆっくりと、立ち上がった。
涙は、もう流れていなかった。
私の心は、恐ろしいほど、静かだった。
そして私は、たどり着いてしまったのだ。
一つの、あまりにも冷たい、結論に。
(…ああ、そうか)
(あの時、私は、自分で選んだんだ)
(誰かに支配されるでもなく、誰かに流されるでもなく。あの瞬間、私は初めて、自らの意志で、自分の命の使い方を、選んだんだ)
(父からも、母からも、そして、あおを守るという、重圧からも、全てから自由になれる、唯一の、選択を)
(…なのに、私は、失敗した)
(私は、死ぬことさえ、許されなかった)
私の胸の中に、新しい感情が、芽生える。
それは、後悔ではない。
それは、「あの時、死ねていればよかった」という、静かで、そして、どこまでも甘美な、希死念慮。
そうだ。
もう一度、やり直そう。
今度こそ、誰も、邪魔しない、この世界で。
私が、私であるための、唯一の、正しい選択を。
楽に、なろう。
全てを、終わらせよう。
私の思考が、完全に、その黒い光に満たされた、その時だった。
私の瞳が捉えたのは、ネットの向こう側に立つ、影の、その構え。
その、ラケットの角度。
その、指先の形。
その、重心の位置。
それは、私が、誰よりもよく知っている構えだった。
それは、鏡に映した、私自身の姿、そのものだったのだから。




