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異端の白球使い  作者: R.D
第二期 引き継がれる異端

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壊れた人形 (2)

 光のない廊下を、引きずられるように歩いていく。


 私の両脇を支える看護師さんたちの腕は優しかったが、その優しさが、逆に私の無力さを際立たせた。


 連れてこられたのは、病院の一階の奥にある小さな相談室だった。


 ソファに座らされる。


 目の前のテーブルには、飲みかけのお茶が置かれていた。誰のものだろう。分からない。


 しばらくして部屋のドアが開き、息を切らせた父と母が入ってきた。


 母の顔は真っ青で、その目には涙が浮かんでいる。


「葵…!あなた、一体どうしたの…!」


 母が私に駆け寄り、その体を抱きしめようとする。


 でも、私は何の反応も示さない。


 ただ、虚空を見つめているだけ。


 私のそのあまりの変わり果てた姿に、母は言葉を失い、その場で泣き崩れた。


 父が、白衣を着た男性と深刻な顔で話をしている。


 その男性の顔には見覚えがあった。


 そうだ。しおりの担当の先生。富永先生だ。


「…お父さん、お母さん。今の葵さんの状態は、極度の精神的ショックによる一種の自己防衛反応だと考えられます」


 富永先生の、穏やかでしかし揺るぎない声が、静かな部屋に響く。


「彼女の心は今、耐えきれないほどの情報から自らを守るために、全ての機能をシャットダウンしている状態です。このままご自宅にお連れになっても、ご本人も、そしてご家族も疲弊してしまう可能性が高い」


 先生はそこで一度言葉を切り、そして私の両親の目を真っ直ぐに見て言った。


「…提案があります。あくまでご本人の安全を守るための一時的な措置としてですが。医療保護入院という形を、取らせてはいただけないでしょうか」


 入院、という言葉。


 その言葉に、母がはっと顔を上げる。


 父が、険しい顔で問い返した。


「…先生。それはつまり、娘を精神科の病棟に入れる、ということですか」


「はい」と、富永先生は静かに頷いた。


「そこは、外部からの刺激を完全に遮断した、静かで安全な場所です。専門のスタッフが24時間、彼女のそばに付き添い、心と体の回復をサポートします。決して長い期間ではありません。彼女の心が少しでも落ち着きを取り戻すまでの、ほんの数週間です」


 父はしばらく黙り込んでいた。


 そして、私のその抜け殻のような顔をじっと見つめ、何かを決意したように、深く息を吐き出した。


「…分かりました、先生。娘の全てを、お任せします」


 その父の一言で、私の運命は決まった。


 父が書類にサインをするのが見えた。


 母は私の隣で、ただ泣いていた。


 富永先生が、私の肩にそっと手を置く。その手の温かさだけが、妙にリアルだった。


 私は、看護師さんに導かれるまま、エレベーターに乗った。


 最上階。


 そこは、他の階とは明らかに空気が違っていた。


 廊下はどこまでも真っ白で、そして音が、ない。


 一つの重い鉄の扉の前で、私たちは足を止めた。


 看護師さんが鍵束から一本の鍵を取り出し、その鍵穴に差し込む。


 ガチャリ、という重い金属音が響き渡り、扉が開かれた。


 私が、中へと促される。


 そして私の背後で、再び扉が閉められ、もう一度、あの無機質な施錠の音がした。


 私はもう、ここから自分の意志では出られない。


 通されたのは、何もない、だだっ広い個室だった。


 壁も、床も、全てが柔らかいアイボリーの素材で覆われている。


 部屋の隅に、ベッドが一つ、ぽつんと置かれているだけ。


 窓は、あった。


 しかし、その窓は分厚い強化ガラスでできていた。内側には細いワイヤーメッシュが埋め込まれている。安全のため、指が数本入る程度しか開かない設計らしかった。


(…鉄格子…)


 私の心は、そう呟いた。


 形が違うだけ。


 これは、鉄格子と同じだ。


 私を、この白い独房から一歩も外に出さないという、世界の冷たい意志。


 その、どうしようもない事実だけが、そこにはあった。


 看護師さんが、私をベッドへと優しく導く。


 私は何の抵抗も示さず、そのシーツの上に横たわった。


 天井もまた、真っ白で、シミ一つなかった。


(しおりが今見ている天井も、こんな色をしているのだろうか)


「少し楽になるお薬だからね」


 優しい声と共に、私の腕にちくりとした痛みが走る。


 注射。


 液体が、私の血管へと流れ込んでくるのが分かった。


 急速に、意識が遠のいていく。


 思考が、白く塗りつぶされていく。


 ああ、これでいいんだ。


 もう、何も考えなくていい。


 何も、感じなくていい。


 あの、残酷な現実から、逃げられるのなら。


 最後に私の脳裏に浮かんだのは、あの日、担架で運ばれていく、しおりの白い顔だった。


(…ごめんね、しおり)


(あなたのいない世界で生きている勇気が、私にはなかったよ…)


 それが、私の最後の思考だった。


 私の意識は、完全に、人工的な深い闇の中へと沈んでいった。

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