堕ちた英雄
私の錆び付いた歯車が、今、この瞬間から再び動き始める。
でも、その音はあまりにもか細く、そして頼りなかった。
電車に乗り、隣の県へと向かう。
ガタン、ゴトン。
窓の外を、知らない景色が流れていく。
でも、私の目には、そのどれもが色褪せて見えていた。
しおりとの思い出だけが、私を動かしている。
あの温かい手の感触。
あの優しい笑顔。
その記憶だけを必死に手繰り寄せなければ、私は今にも、この身を窓から投げ出してしまいそうだった。
電車の中は、人もまばらだ。
その僅かな人々の視線が、私の肌に痛い。
彼らは、私を見ている。
そして、噂しているのだ。
「あの子、なんだかおかしいね」と。
「生きている価値なんて、ないのにね」と。
違う。
違う。
違う。
誰も、私のことなんて見ていない。
私は、ここにいない。
まるで、私の存在が認められていないように感じる。
私は必死にその思考を振り払うように、膝の上の拳を強く握りしめた。
それでも、私はしおりのいる病院へとたどり着いた。
受付で、か細い声を絞り出す。
「…あの。静寂しおりさんの、お見舞いに来ました…」
看護師さんが何かを言っている。
でも、その言葉は私の耳には届かない。
ただ、渡された入館証を握りしめ、そして言われた病室へと向かうだけ。
しおりのいる病室の、白い扉の前へ。
足が、動かない。
怖い。
見るのが、怖い。
もし、私が思っているよりも、ずっとひどい状態だったら?
もし、もう二度と目を覚まさないと、言われたら?
その恐怖に、私の呼吸が浅くなる。
私は、深呼吸を何度もして、必死に落ち着こうとした。
(…大丈夫)
私は心の中で、自分に言い聞かせる。
(私は、しおりに会いに来たんだ)
(私の英雄に。私の、初恋の人に)
私は、しおりに恋い焦がれたあの気持ちを、必死に思い出しながら、震える手でドアノブに手をかけた。
そして、扉を開く。
そこに、いたのは。
そこに、あったのは。
意識不明で、ずっと眠っているしおりの姿だった。
白いベッド。
白いシーツ。
その中で、彼女はただ静かに横たわっている。
ピッ、ピッ、ピッ、という無機質な電子音が、彼女がまだ生きているという事実だけを告げている。
でも、それだけだ。
彼女は、死んでいないだけ。
いつ目覚めるかも、分からない。
もしかしたら、もう、二度と…。
その現実を目の当たりにした瞬間。
私の心の中でかろうじて繋ぎ止めていた、細い細い糸が、ぷつりと切れる音がした。
「………あ…」
私の口から、声にならない声が漏れる。
やっぱり、そうなんだ。
私の希望は、ただの幻想だったんだ。
私の英雄は、地に堕ちてしまったんだ。
私は、その場に崩れ落ちた。
膝から力が抜け、冷たい床に手をつく。
もう、何も考えられない。
何も、感じない。
ただ、目の前の、そのあまりにも残酷な光景だけが、私の全てだった。
私は、その場に崩れ落ちたまま動けなくなった。
涙も出なかった。
ただ、深い、深い、そしてどこまでも救いのない闇だけが、私の心を支配していた。
私の世界は、今、この瞬間、本当に終わってしまったのだ。




