沈み行く者 (3)
「…おかえり、葵ちゃん」
その言葉。
その、全てを受け入れてくれるような響き。
私の瞳から、涙が一筋、零れ落ちた。
それは回復にはほど遠い。
ほんの小さな、小さな一歩。
しかし、私の止まっていた時間が、ほんのわずかに動き始めた、その瞬間だった。
あかねちゃんは、その日、私が眠りにつくまでずっとそばにいてくれた。
翌朝、私が目を覚ました時、彼女の姿はもうなかったけれど、枕元には一枚の小さなメモが、置かれていた。
『また、来るね』
そう書かれた文字が、私の心を温める。
私はゆっくりと、ベッドから体を起こした。
そして、あの事件から初めて、自らの意志で部屋の外へと出た。
リビングへと向かう廊下。
そこで、私はお母さんと目が合った。
彼女は驚いたように目を見開き、そして、その瞳に涙を浮かべていた。
何も言わずに、ただ私の頬をそっと撫でる母の手。
その温かさに、私は心の中で何度も謝った。
(ごめんね、お母さん。心配、かけたよね)
私はそのままシャワーを浴び、そしてお風呂に入った。
温かいお湯が、固まっていた私の体をゆっくりと解きほぐしていく。
そして、私は思い出す。
しおりとの、温かい思い出を。
二人で入った、あの大きなお風呂。
一緒に食べた、あの不思議なカレー。
そして、彼女が見せてくれた、あの優しい笑顔。
(…そっか。私は、まだ、ここにいるんだ)
(私の世界は、まだ終わってなんかいないんだ)
お風呂から上がり、私は鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、ひどく痩せて、そしてやつれた自分の姿。
でも、その瞳には、ほんの少しだけ光が戻っていた。
私は決意する。
しおりの元へと行こう、と。
お見舞いに行くことに。
今の私に何ができるかは、分からない。
でも、それでもいい。
ただ、彼女のそばにいたい。
私は着替えを済ませ、そして玄関のドアを開けた。
久しぶりに見る、外の世界。
太陽の光が、眩しい。
でも、もう怖くはなかった。
私の太陽は、今、病院のベッドの上で私を待っているのだから。
私は、その光の元へと、確かな一歩を踏み出した。
私の錆び付いた歯車が、今この瞬間から再び、動き始める。




