胡蝶の夢 (3)
闇に溶けた私の前には、再びあの卓球台と、影がいた。
そして、私の左手には、いつの間にか、ラケットが握られている。
だがそれは、もう、あの初心者用のラケットでは、ない。
フォア面の、赤い裏ソフト。そして、バック面の、黒いアンチラバー。
私の、今の武器。
影が、ロングサーブを放つ。
私はそれを、ドライブで返す。
壮絶な、ドライブの応酬。
そして、ラリーの中で生まれた、僅かな隙。
私はラケットを、ひらりと翻し、アンチラバーでナックルドライブを放つ。
そのボールが、影のコートを打ち抜いた時、また記憶が蘇る。
目の前の宇宙がスクリーンとなって、映し出されたのは、私が最も見たくない、しかし、目を逸らしてはいけない記憶の、断片だった。
家に、帰れば地獄。
学校へ行けば、あおとの楽しい時間。
私の毎日は、その二つの世界を、行ったり来たりする、綱渡りのようなものだった。
あの日、公民館の帰り道。
「しおり、腕、どうしたの?その傷」
あおの、その純粋な瞳。
私は、雑な嘘で、その場を取り繕った。
でも、その日から彼女は、私をより注意深く、見るようになった。
そして、運命の日。
更衣室で、彼女は見てしまったのだ。
私の体に刻まれた、無数の痣を。
床に落ちる、水筒の音。
呆然と立ち尽くす、彼女の顔。
私たちの「聖域」が、音を立てて崩壊していく。
そして、その夜。
母の、冷たい声。
『もしこのことが、誰かにバレたら、葵も巻き込む』
その言葉が、私に、残酷な決意をさせた。
あおを、守るために。
私は彼女に、嫌われなければならない、と。
次の日学校で、彼女が心配そうに、私に声をかけてきた。
「しおり、昨日のこと…」
私は、その言葉を遮った。
そして、これまでの人生で、一度も浮かべたことのない、氷のように、冷たい仮面を被り、そして、言ったのだ。
「…あなたには、関係ない。もう私に、話しかけないで」と。
その、光景。
その、言葉。
それを、今、私が見て、そして、感じる。
ああ。
私は、なんてひどいことを、してしまったのだろう。
彼女のあの、傷ついた瞳。
信じていた親友に裏切られた、あの絶望。
その全てが、今の私には、痛いほど分かる。
私は、彼女を守りたかった。
でも、その方法は、あまりにも稚拙で、そして残酷すぎた。
私は、彼女のその、優しい心を、ズタズタに引き裂いてしまったのだ。
私が、あおという少女に与えた、傷の深さを、私は今、ようやく、本当の意味で理解した。
私の胸が、張り裂けそうに痛む。
ごめんね、あお。
ごめんね。
私の瞳から、熱い何かが、止めどなく溢れ出してくる。
それは、私がずっと忘れていた、後悔という、名の涙だった。
私は、その闇の中で、一人泣き続けた。
砕け散ったラケットと、そして、砕け散った友情の、記憶の中で。
どこまでも、どこまでも、深く。




