大人のルール
俺は、職員室の窓から、夕暮れのグラウンドを、眺めていた。
サッカー部員たちの、活気のある声が、ここまで聞こえてくる。
平和な日常。
しかし、俺の心は、鉛のように重かった。
ポケットの、中で、スマートフォンが、震える。
静寂の祖父母からの着信だ。彼女の容態に、変化はない、という定時連絡。
俺はそれに、当たり障りのない返事をし、そして、電話を切った。
その行為一つ一つが、まるで、嘘に加担しているようで、胸が、締め付けられる。
脳裏に蘇るのは、あの日の光景だ。
事件から、数時間後。
俺が、病院の廊下で、途方に暮れていた時、教頭先生から、電話がかかってきた。
「今すぐ学校に戻ってきてください。緊急の、会議です」と。
校長室の、重い扉を開ける。
そこにいたのは、校長と教頭、そして、生徒指導の田中先生。
部屋の空気は、氷のように冷え切っていた。
校長は、俺が椅子に、座るのを待って、静かに、そして、有無を言わせぬ口調で、言ったのだ。
「佐藤先生。先ほどの件だがね。あれは、『事故』だ。いいね?」
俺は、耳を疑った。
「…事故、ですか?しかし校長、あれは明らかに…」
「事故だ」
校長の言葉が、俺の言葉を、遮る。
「教室の片付けの最中に起きた、不幸な事故。生徒間の、トラブルなど存在しない。これが、学校としての、公式見解となる」
そして、彼は続けた。その言葉に、俺は戦慄した。
「そして同時にだ。冬休み中の、卓球部の、全国大会での快挙。これは、本校の誇りだ。来週の朝礼で、改めて、全校生徒の前で表彰する。地域の広報誌にも、大きく取り上げてもらうよう、すでに手配済みだ」
頭が、混乱する。
栄光と、不祥事。
そのあまりにも矛盾した、二つの、現実を、この男は、同時に利用しようとしている。
俺は、食い下がった。
「ですが、それでは、話が合いません!加害者の、生徒は、どうなるんですか!被害者の、静寂は…!」
その瞬間、校長の、その温和な仮面が、剥がれ落ちた。
その瞳に宿っていたのは、氷のように冷たい、軽蔑の色だった。
「佐藤先生。君はまだ、分かっていないようだね」
「これは、『戒厳令』だ。この件に関して、教職員は、一切の、私的な言動を禁ずる。生徒への、個別での事情聴取も禁止だ。全て、我々管理職が、責任を持って処理する。君はただ、我々の指示に従っていれば、いい」
そして彼は、最後の一撃を放った。
その声は、再び、優しい校長先生の、それに戻っていた。
だからこそ、それは、何よりも恐ろしい、脅迫として、俺の耳に、届いた。
「君にも、可愛い奥さんと、お子さんたちがいるんだろう?私も、教師として、そして、一人の人間として、君の家族の未来が、不幸なものになるのは、見たくないんだよ。…分かるね?」
その、言葉。
俺はもう、何も言えなかった。
そうだ。俺は、一人ではない。
俺の背後には、俺を信じ、頼ってくれている、家族がいる。
俺の、たった一つの正義感で、その家族を、路頭に迷わせる覚悟が、俺にあるのか。
ない。
俺には、ないのだ。
俺はただ、唇を噛み締め、そして、深く深く、頭を下げることしか、できなかった。
自分の、流儀ではない。
教育者として、あるまじき、行為だ。
分かっている。
分かっているが、俺は、この、巨大な嘘に、加担するしか、道はなかった。
窓の外は、もうすっかり、暗くなっていた。
俺は、重い足取りで、学校を後にする。
この罪悪感を、俺はこれから、ずっと背負って、生きていくしかないのだろうか。
その答えの出ない問いだけが、俺の心を、支配していた。




