沈み行く者 (2)
私がただ、その闇の中で、静かに、静かに沈んでいってから、どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
もう、曜日の感覚も、昼と夜の区別も、つかない。
時折母が、部屋のドアをノックし、食事を置いていく気配がする。
でも、私は、それに応えない。
その食事に、手をつけることもない。
ただ、壁の方を向いて、体を丸め続けるだけ。
その日も、そうだった。
コンコンと、控えめな、ノックの音。
また、お母さんかな。
私は、反応しない。
しかし、次の瞬間、私の耳に届いたのは、予想外の声だった。
「…葵ちゃん?いる?あかねだよ」
あかねちゃん…?
なんで…。
私の心臓が、小さく跳ねる。
でも、私は、動けない。
どんな顔をすればいいのか、分からない。
私が、返事をしないでいると、ドアの向こう側から、もう一つ、静かな声が、聞こえてきた。
「…あかねさん。彼女は今、話せる状態ではないのかもしれません」
未来ちゃん…?
なんで、二人で…。
やめて。
来ないで。
今の私を、見ないで。
ガチャリ、と、ドアノブが、回る音がした。
お母さんが、鍵を開けてしまったのだろうか。
私は必死に、布団を頭まで被り直し、その存在を、消そうとした。
二つの足音が、部屋に入ってくる。
私のベッドのすぐそばで、その足音は、止まった。
「…葵ちゃん。私たちだよ。…顔、見せてくれないかな?」
あかねさんの、その優しい声が、私の鼓膜を、震わせる。
でも、私は、動けない。
動きたくない。
しばらくの、沈黙。
やがて、未来ちゃんの、冷静な声がした。
「…あかねさん。やはり、一度帰りましょう。今の彼女に、言葉は届かない」
「…うん。でも…」
あかねさんの、躊躇う気配。
そして彼女は、何かを決意したように、言ったのだ。
「…ううん。私、もう少し、ここにいる」
「未来さんは、先に帰ってて、私、ただここに座ってるだけだから」
私は、布団の中で、息を殺していた。
やがて、一つの足音が遠ざかり、部屋のドアが、静かに閉まる、音がした。
未来ちゃんが、帰っていったのだ。
部屋には、私とあかねさん、二人だけ。
彼女は、何も、言わない。
ただ、衣擦れの音がして、彼女が、私のベッドのすぐ横の床に、直接座り込んだのが、分かった。
彼女は、私に、何も話しかけては、こない。
ただ、そこに、いる。
その、静かな気配だけが、部屋の空気を、満たしている。
どれくらいの、時間が、経っただろうか。
5分、あるいは、30分。
その、ただひたすらに、静かな時間が、私の心の、固い氷を、ほんの少しだけ、溶かし始めた。
私はゆっくりと、布団から、顔を出した。
そして、振り返る。
そこに、あかねさんが、いた。
体育座りで、ただじっと、床の一点を、見つめている。
その横顔は、悲しそうだったけど、でも、どこまでも、穏やかだった。
私たちの、視線が合う。
彼女は驚いたように、少しだけ目を見開いたが、すぐに、ふわりと笑った。
それは、昔の、太陽のような笑顔では、なかった。
もっと、儚く、そして優しい、月の光のような、笑顔だった。
そして彼女は、たった、一言だけ、言った。
「…おかえり、葵ちゃん」
その、言葉。
その全てを、受け入れてくれるような、響き。
私の瞳から、涙が一筋、零れ落ちた。
それは、回復にはほど遠い、ほんの、小さな小さな、一歩。
しかし、私の止まっていた時間が、ほんのわずかに動き始めた、その瞬間だった。




