沈み行く者
時間の感覚がなかった。
カーテンの隙間から差し込む、光の角度だけが、今が朝なのか、昼なのか、あるいは、もう夕方なのかを、ぼんやりと示している。
でも、そんなことはどうでもよかった。
朝が来たって、夜が来たって、私の世界は、何も変わらないのだから。
私の体は、まるで、鉛でできているみたいだった。
手足を動かすのも億劫で、ただ、ベッドと一体化して、天井のシミを数えるだけ。
お腹も、空かない。
喉も、渇かない。
何かをしたい、という気持ちが、綺麗に全部、なくなってしまった。
心の中が、空っぽの洞窟みたいで、時折、冷たい風が、吹き抜けていくだけ。
ブー、ブー、と、枕元のスマートフォンが、震えた。
画面には「未来ちゃん」という文字が、表示されている。
きっとまた、心配して、メッセージを送ってきてくれたのだろう。
『大丈夫ですか』
『何か食べるものは、ありますか』
『明日少しだけ、顔を見に行っても、いいですか』
その、一つ一つの言葉が、優しければ優しいほど、私の心には、鋭い棘となって突き刺さる。
(…やめてよ)
声には、出さない。
出す気力も、ない。
(…もうほっといてよ、未来ちゃん)
(今の私に、あなたの、その優しさを、受け止める資格なんて、ないんだから)
私は、スマートフォンを裏返し、そして、再び天井へと、視線を戻した。
その視線の先に、部屋の隅に立てかけてある、一つのラケットケースが、目に入った。
あの日以来、一度も開けていない、私のラケット。
その表面には、うっすらと、埃が積もっている。
あれはかつて、私の希望の全てだった。
このラケットさえ、あれば。
この腕を、磨き続ければ。
いつか必ず、しおりにたどり着ける、と、信じていた。
私と彼女を繋ぐ、たった一本の、光の糸だった。
そして、その光を辿って、私は、やっと彼女を、見つけ出した。
盗まれた宝物を、取り戻した。
やっとこれから、また、新しい物語が始まるのだと、そう信じていた。
なのに。
私の宝物は、粉々に、砕け散ってしまった。
しおりが、倒れた、その姿を見た、あの瞬間。
私の、世界は、終わった。
私が、彼女のそばに、いなかったから。
私が、彼女を、守れなかったから。
私の力が、足りなかったから。
ラケットケースが、ぼやけて見える。
ああ、また涙が、出てきた。
もう泣くのも、疲れたのに。
もう意味なんて、ない。
卓球をする、意味も。
ご飯を食べる、意味も。
朝、起きる、意味も。
私が、生きている、意味さえも。
しおりのいないこの世界は、あまりにも広くて、そして、色がない。
私の太陽は、もう二度と、昇らない。
私は、ゆっくりと、寝返りを打った。
そして、壁の方を向き、冷たい布団を、頭まで、すっぽりと被る。
ブー、ブー、と、スマートフォンの、震える音が、まだ聞こえている。
でもそれも、やがて、遠ざかっていく。
私の世界は今、この布団の中の、狭く、そして、光の届かない闇だけ。
それが、今の私に許された、唯一の場所だった。
私は、ただ、その闇の中で、静かに、静かに、沈んでいく。
どこまでも、深く。




