胡蝶の夢 (2)
宇宙が再び、深い深い闇に、包まれていく。
私は、その闇の中で、一人落ちていく。
どこまでも、どこまでも、深く。
(…痛い)
背中に、焼けるような痛みが走った。
それは、ラケットが砕け散った時の、心の痛みとは、違う。
もっと直接的で、そして生々しい、肉体の痛み。
私は、自分の背中から落ちてきたものを、見た。
そこにあったのは、見えない、包丁。
いや、違う。瓶の破片だ。
それが、何度も何度も、私の背中を、切りつけていく。
赤い、赤い血が、流れていく。
その光景を、私はただ、他人事のように、眺めていた。
まるで、壊れた人形を、見るように。
(ああ、そうか。これは、あの時の記憶)
全ての感情を抑え、捨てようとしていた私が、経験したこと。
それを、今、私が、追体験しているんだ。
そうだ。
あの頃の私は、何も、感じなかった。
感情を、捨てていたから。
でも、今の私には、分かる。
この、焼かれるような、痛さが。
この、どうしようもない、恐怖が。
そして、何よりも、この、救いのない環境の中で、たった一人で、耐えなければならなかった、あの、絶望的な孤独が。
場面が、変わる。
私は、家のお風呂場にいた。
後ろから、頭を鷲掴みにされ、そして、顔を、風呂のお湯に、押し付けられる。
息ができない。
水が、鼻と口から、肺へと流れ込んでくる。
窒息するギリギリだった、あの、恐怖。
死ぬ。
死ぬ、死ぬ、死ぬ。
思考が、白く染まっていく。
その瞬間、頭を掴んでいた力が緩み、私は、解放される。
「ゲホッ、ゴホッ!」
私は、必死に咳き込み、そして、酸素を求めた。
その、私の姿を、お父さんが、冷たい目で、見下ろしている。
お母さんは、その隣で、ただ黙って、立っているだけ。
(…ああ、そうだ)
(これが、私の、日常だった)
(これが、私が生きていた、世界だったんだ)
私は、その闇の中で、再び落ちていく。
どこまでも、どこまでも、深く。
砕け散ったラケットと共に、私の心もまた、粉々に、なっていく。
星々の光が、遠ざかっていく。
宇宙が再び、深い深い、闇に、包まれていく。
私の、悪夢は、ここで、終わってくれるのだろうか。
そんなことを考えながら、私の意識は、再び、闇の中へと、溶けていった。




