継がれる白球使い
その日私は、部の備品である、ボールとラバークリーナーを補充するために、一人あの、卓球用品店を訪れていた。
特に理由があったわけではない。ただ何となく、あの静かで、優しい空間に、行きたくなったのかもしれない。
「いらっしゃい、幽基さん、…ああいや『部長』と、呼ぶべきかな」
店の奥から現れた店長さんが、いつもの、人の良い笑顔で、私を迎えてくれた。その言葉に、私の肩が、少しだけ重くなる。
「いえ…。まだ、そんな大したことは、何も」
「ははは、謙遜するな。あの大変な状況で、部をまとめ上げているんだろう?大したもんさ。…それで、何か必要なものでも?」
私は、いくつかの備品を注文する。店長さんは、手際よく、それらをカウンターに揃えながら、ふと思い出したように、言った。
その声は、少しだけ、トーンが低かった。
「…そういえば、幽基さん、君に、ずっと渡さなければならないものが、あったんだ」
「私に、ですか?」
「ああ。…これなんだがね」
そう言って彼が、カウンターの下から取り出したのは、一本の、真新しいラケットだった。
ブレードにはまだ、透明なフィルムが貼られている。
フォア面には、見慣れた赤い裏ソフトラバー。
そして、バック面には。
あの黒く、そして不気味なほど光を吸い込む、アンチスピンラバーが、貼られていた。
私の呼吸が、止まる。
それは、あまりにも見覚えのある、組み合わせだったから。
「…これは…しおりさんの…?」
「ああ。だが、少し違う」
店長さんは、静かに、そして、言葉を選ぶように、続けた。
「これはね、あの日…あの事件が、起きる、ほんの数日前に、静寂が、注文していったものなんだ」
「『いつも、お世話になっているから』って言ってね。『未来さんに、プレゼントしたいのです』って。…照れくさそうに、でも、本当に嬉しそうに、笑ってたよ」
その、言葉。
その、あまりにも残酷で、そして、あまりにも温かい、真実。
(…プレゼント?私に?あの日の、数日前に…?)
私の脳裏に、あの日の、しおりさんの言葉が、蘇る。
『私の後に、気付かれないように、着いてきて観察してください』
『何かあったら、先生を呼んでください』
…偶然かもしれない、けれども、もしかしたら。
彼女は、分かっていたのかもしれない。
自分に、何かが起きることを。
そして、その上で、私のために、これを用意してくれていた、という可能性も…。
「…バック面の、アンチはね、『Abs3』だ。静寂が使っていたものより、少しだけ、変化の大きいモデル。君の分析とカット戦術ならなら、相性もよく、使いこなせるって、彼女が選んだんだよ」
店長さんの声が、遠くに聞こえる。
私の視線は、ただ、その一本のラケットに、釘付けになっていた。
しおりさんの、信頼。
しおりさんの、覚悟。
しおりさんの、無念。
その全てが、このラケット一本に、込められている、そんな気がする。
あまりにも重い。
重すぎる。
私の瞳から、熱いものが、一筋、零れ落ちた。
店長さんは、何も言わずに、ただ静かに、それを見ていた。
しばらくの後。
私は、震える手で、そのラケットを受け取った。
そのグリップを、強く強く、握りしめる。
それはまるで、しおりさんの、冷たくなってしまった手を、握るような感覚だった。
私は、顔を上げた。
涙はもう、流れていなかった。
私の瞳に宿っていたのは、悲しみでは、ない。
静かで、そして揺るぎない、一つの、決意の光だった。
「…店長さん。ありがとうございます。これは、私が、使います」
「…ああ」
「私が、部長としてではなく。一人の選手として」
そうだ。
守るだけでは、ダメだ。
このラケットと共に、私も戦わなければ。
あなたが守ろうとした全てを、私が、この手で守り抜くために。
観測者としての、幽基未来は、今、この瞬間、死んだ。
そして、一人の「異端の白球使い」が、ここに、静かに、産声を上げたのだ。




