二年目の一学期
あれから、三ヶ月が過ぎた。
季節は、春を迎えている。
体育館には、規則正しい、しかし、どこか力の抜けた打球音が、響いている。
私は、新しく入部してきた、一年生たちの練習風景を、じっと観測していた。
今年の一年生は、粒ぞろいだ。中学から本格的に卓球を始めた、という未経験者は、一人もいない。皆、小学生の頃から、地域のクラブで腕を磨いてきた、エリートたちだ。
それも、そのはず。
この、何の変哲もない、公立の第五中学校卓球部は、今や、この地域で最も名の知れた「強豪校」なのだから。
壁に、誇らしげに、しかし、どこか虚しく、掲げられた、一枚の横断幕。
『祝・全国大会 男女シングルス アベック優勝』
その、輝かしい、文字を見るたびに、私の、胸の奥は、鈍く痛んだ。
一年生の一人が、バックハンドをネットにかけ、悔しそうに、ラケットを見つめている。
私は、彼の元へと歩み寄り、いくつかの、技術的なアドバイスを送った。
「手首の角度が少しだけ開きすぎている。ボールを、もう少し引きつけてから、体の中心で、捉えるように」
「は、はい!部長!」
彼は、そう元気よく返事をしたが、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、物足りなそうな色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。
彼らが、本当に教えてほしいのは、私ではない。
彼らが憧れて、この部の門を叩いた、あの「予測不能の魔女」なのだ。
私は、何も言わずに、その場を離れた。
脳裏に、今はもう、ここにはいない人々の顔が浮かび上がる。
猛部長は、この春、高校へと進学していった。
卒業式の日、彼は、私の肩を強く叩き「未来、あとは頼んだぞ」と言った。その笑顔は、いつものように豪快だったが、その目の奥には、深い後悔の色が滲んでいた。彼は結局、最後まで、自分を許すことができなかったのだ。
日向葵さんは、あの日以来、どうしているのか、誰も知らない。
彼女は元々、別の学校だった。事件の後、彼女の学校の卓球部も、辞めてしまったと、風の噂で聞いた。連絡は取れない。彼女はまるで、神隠しにでもあったかのように、私たちの世界から、完全に、姿を消してしまった。
そして、しおりさんは。
…静寂しおりは、今もあの、白い部屋の、白いベッドの上で、静かに、眠り続けている。
いつ目覚めるのか、誰にも分からない。
あるいは、もう二度と…。
そこまで、思考が至りそうになった、その時だった。
体育館の、入り口のドアが、静かに開いた。
あかねさんだった。
彼女は、誰とも目を合わさず、静かな足取りで、マネージャー用の机へと向かい、そこに、スポーツドリンクの入ったボトルを、並べ始める。
かつての、太陽のような明るい笑顔は、どこにもない。ただ淡々と、仕事をこなしているだけ。
彼女は、週に一度か二度、こうして、顔を見せる。それが、彼女なりの、この部活との、そして、私たちとの、ぎりぎりの繋がり方だった。
私たちの視線が、一瞬だけ交差する。
お互いに、何も言わない。
しかし、その一瞬の視線だけで、私たちは、互いの心の重さを、理解し合っていた。
私は再び、コートへと目を戻す。
才能ある一年生たち。部の未来。
しかし私の目には、彼らの姿が、どこか色褪せて見えていた。
そうだ。
この体育館は、あまりにも、静かすぎる。
あの、二人の「天才」がいた頃の、あの空気を切り裂くような、緊張感も、全てを溶かすような、温かい笑い声も、もうどこにもない。
私の新しい戦いは、始まっている。
それは、全国大会優勝、という、輝かしい目標ではない。
ただ、この光を失い、ゆっくりと崩壊しかけている、大切な「場所」を、彼女たちが、いつか、帰ってくるその日まで、私が部長として、守り抜く。
あまりにも孤独で、そして、終わりの見えない戦いだ。




