勝利への道筋
彼女の心が折れる音を、確かに聞いた気がした。
そして、それはコート上のプレイに如実に現れ始めた。
あのエースポイントで、私の連続サーブは終わり、サーブ権は高橋選手へと移っていた。しかし、彼女の瞳には、もう戦う意志の光はほとんど残っていない。
サーブ権は高橋選手。彼女は、まるで義務のように、力なくサーブを放った。
それは、かつて私を苦しめた彼女の得意な横下回転サーブの面影はなく、ただコースも甘く、回転も浅い、平凡なサーブだった。
私は、そのボールを逃さない。短く、しかし鋭いツッツキで彼女のフォアサイドを切るように返球する。
高橋選手は、そのボールに辛うじて追いついたものの、体勢は完全に崩れている。苦し紛れに返してきたボールは、山なりに、私のフォア側へ。
絶好のチャンスボール。
私は、静かにステップを踏み、練習で繰り返した通りのフォームで、強烈なフォアハンドドライブを叩き込んだ。
ボールは、高橋選手のコートに、まるで杭を打ち込むかのように突き刺さる。彼女は、その場から一歩も動けなかった。
静寂 6 - 3 高橋
高橋選手の二本目のサーブ。
これもまた、先ほどと同様に覇気がなかった。ネットすれすれを狙ったのだろうが、ボールは力なくネットにかかり、得点は私に入った。
静寂 7 - 3 高橋
「……もう、勝負あったな」
「高橋、完全に心が折れちまったみたいだ…」
観客席からは、囁くような声が聞こえてくる。
同情と、そしてある種の残酷な現実を目の当たりにしたかのような、複雑な感情が入り混じっている。
ここでサーブ権が私に移る。私のサーブ。今度は、回転を抑えた、速いロングサーブを彼女のバックへ。
意表を突くタイミングとコース。高橋選手の反応は明らかに遅れ、ラケットに掠りもせずにボールはコートを駆け抜けた。
静寂 8 - 3 高橋
エース。しかし、序盤のエースとは観客の反応も、そして相手の反応も全く異なっていた。
体育館には、ため息ともつかない、重い空気が漂い始めている。
私の二本目のサーブ。高橋選手の瞳は虚ろで、もはやそこに立っているのがやっとという状態に見えた。
私は、深呼吸を一つ。最後の一球まで、油断なく、自分の最善を尽くす。
放たれたサーブは、短く、ネット際に低くコントロールされた下回転サーブ。
高橋選手は、それに反応しようとラケットを出すが、その動きはあまりにも緩慢で、ボールはネットを越えることなく、彼女のコート側へと力なく落ちた。
静寂 9 - 3 高橋
サーブ権は再び高橋選手へ。ゲームポイントまであと2つ。
彼女の表情は変わらず暗いままだ。
放たれたサーブは、やはり力なく、私のフォア側へ。私はそれを確実に捉え、厳しいコースへレシーブを決めた。
静寂 10 - 3 高橋
ゲームポイント。そして、高橋選手のこのゲーム最後のサーブになるかもしれない一本。
彼女は力なくボールをトスし、弱々しいサーブを放った。回転もスピードもない、ただ返ってきただけのボール。
私は、そのボールを見逃さず、静かに、しかし確実に、高橋選手が最も反応しにくいであろうフォアの隅深くに、コントロールされたドライブを打ち込んだ。
静寂 11 - 3 高橋
ポイントのコールが、体育館に静かに響いた。試合終了だ。
私は、小さく息を吐き、相手コートへと歩み寄る。
高橋選手は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりとネットに近づいてきた。
その顔は、汗と、もしかしたら涙で濡れているのかもしれない。
しかし、彼女はそれを拭おうともせず、ただ力なく差し出された手を、私は静かに握った。
「……ありがとう、ございました」
か細い、震える声だった。
「ありがとうございました」
私もまた、静かに応えた。
勝者と敗者。そのコントラストが、小さな卓球台を挟んで、残酷なまでに明確に示されていた。
私の「異端」な進化は、一つの結果を生み出した。そして、その結果の重さを、私は今、改めて感じていた。
高橋選手に一礼し、審判にも礼をすると、私は自分のタオルとドリンクが置いてある控え場所へと静かに歩き出した。
体育館のざわめきは続いていたが、それは先ほどまでの試合中の熱狂とは異なっていた。
一部の観客や他校の選手らしき人々は、称賛の声を上げるでもなく、どこか遠巻きに、値踏みするような、あるいは理解できないものを見るような目で私を見ている。
ヒソヒソと交わされる言葉の断片が、私の耳に届く。
「…なんだ、あの子…」「勝ち方が、ちょっと…」「感情がないみたいで、怖いな…」
彼らにとって、私の勝利への執着や、その背景にあるものは知る由もない。
ただ、目の前で行われた一方的な試合展開と、相手の心を折るような戦術、そして何より私の表情の変わらない様に、ある種の冷たさや、底知れない不気味さを感じ取っているのだろう。
それは、私の予測の範囲内であり、勝利という目的の前には些末なノイズでしかなかった。
控え場所では、部長が腕を組んだまま仁王立ちで私を待っていた。
その隣には、あかねさんがノートを片手に、心配と興奮が入り混じったような複雑な表情でこちらを見ている。
彼女たちの反応は、周囲の冷ややかなものとは少し異なっているようだ。
私が近づくと、まず口を開いたのは部長だった。その声には、いつものような大声とは少し違う、抑えた、しかし確かな熱が込められている。
「静寂…」
彼は一度言葉を切り、そして続けた。
「…お前、とんでもねえな。あの高橋を、ここまで一方的に叩きのめすとは。あのサーブの模倣…そして、あの揺さぶり。完全に相手の心を折りにいったな」
その言葉には、非難の色はない。
むしろ、私のプレースタイル、その異質さと勝利への執着に対する、ある種の畏敬と、そして彼自身の得意技を模倣されたことへの複雑な感情が滲んでいるように感じられた。
「…部長の模倣に関しては、以前から分析対象でしたので。効果的な戦術の一つとして実行しました」
私は淡々と事実を述べる。感情を表に出すことはない。
「はっ…分析対象、ね。相変わらずお前は、言うことが可愛げねえな」
部長は、そう言って一瞬だけ苦笑いのような表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。
「だが、見事だった。特に、あのパワーショットを見せつけた後の、あのネット際のフリック。あれは高橋じゃなくても完全に虚を突かれる。お前の『異端』は、確実に進化している」
「ありがとうございます」
私は短く答える。
「しおりさんっ!」
隣で息をのんで私たちの会話を聞いていた三島さんが、ようやく声を上げた。
その目はキラキラと輝いている。
「すごかった!本当にすごかったよ!あの、高橋選手が全然反応できてなかったフリックも、部長先輩のドライブそっくりのスマッシュも!ノート、取る手が追いつかないくらいだったよ!」
彼女は、興奮冷めやらぬ様子で捲し立てる。
周囲の観客が向けるどこか冷めた視線とは対照的に、彼女の純粋な称賛の言葉は、私の心の奥底にある、誰にも見せることのない部分に、ほんのわずかに温かいものを届けた気がした。
「…ありがとうございます、あかねさん。ですが、まだ課題はあります。」
私は、彼女の興奮を鎮めるように、静かに言った。勝利はしたが、完璧ではなかった。いくつかのポイントで、私の判断や技術にはまだ改善の余地がある。
部長は、そんな私を見て、再びニヤリと笑った。
「そうだな。課題がないなんて言ったら、お前は静寂じゃねえ。だが、今は勝利を噛みしめろ。次も、その次も、お前のその『異端』な卓球で、全部勝っていくんだろう?」
彼の言葉は、問いかけのようで、しかし確信に満ちていた。
私は、彼の真っ直ぐな視線を受け止め、静かに頷く。
「はい。勝利こそが、私の存在理由を証明する唯一の手段ですから、そのための布石は、一切躊躇しません。」
その言葉に、部長は一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに満足そうな顔で頷き、そしてポンと私の肩を軽く叩いた。
その手は、大きく、そして熱かった。
私の「異端」な戦いは、まだ始まったばかりだ。
そして、この頼もしい(そして暑苦しい)部長と、献身的なマネージャーと共に、私は次なる戦いへと進んでいく。
その先に、どのような景色が待っているのか。
周囲が私にどのような感情を抱こうとも、私の勝利への道程は、揺るがない。




