最後の一点
体育館の、全ての音が、消え去ったかのようだ。
聞こえるのは、ネットの向こう側に立つ、九州中学のエース、市ノ瀬の荒い呼吸音と、そして、俺自身の早鐘を打つ、心臓の音だけ。
マッチポイント、は俺。
あと、一点。
この一点を取れば、俺の全国制覇が決まる。
だがその一点が、限りなく遠い。
市ノ瀬の、その切れ味鋭いドライブが、何度も何度も、俺を襲う。
俺はなんとか、最後の一線を割らせないように、必死に食らいついている。
だが、もう限界だった。
体力も、集中力も、底をつきかけている。
(…くそっ、どうすれば…)
その、絶望的な状況の中で、俺の脳裏に、ふと懐かしい光景が、蘇った。
それはまだ、俺たちが小学生だった頃。
風花との、思い出。
いつも天才的なプレーで、俺を翻弄する、彼女。
そんな彼女に、俺が「どうすれば、お前みたいに、なれるんだ?」と聞いた時。
彼女は、きょとんとした顔で、そして、太陽のように笑って、言ったのだ。
『どうして?猛は、猛らしく、やればいいじゃん!』
(…俺らしく、か)
そうだ。
俺には風花、お前のような、天性の才能も、後藤のような冷静さも、ねえ。
俺にあるのは、ただ、この馬鹿みたいに、熱い魂と、そして、諦めの悪さだけだ。
俺は、しおりを思い出し、観客席へと目を、向けた。
彼女は静かに、こちらを見ていた。
そして俺が、彼女を見た、その瞬間、彼女が、何かを察したように、小さく頷いた、気がした。
(…ああ。そうだよな)
そうだ。
俺は、俺らしく戦う。
猿真似でも、みっともなくても、最後まで、足掻き続ける。
泥臭いファイト、それが、俺のやり方だ。
俺は、決意を固めた。
サーブ権は、市ノ瀬。
彼が放ったのは、渾身の、下回転のロングサーブ。
俺を、打ち合いの勝負へと引きずり込むための、一球。
俺はその挑発に、乗る。
ドライブで、応戦する。
壮絶な、ラリーの応酬。
そして、ラリーが10本を超えた、その時だった。
俺の返球が、ほんのわずかに、甘くなった。
市ノ瀬は、それを見逃さない。
彼は一歩踏み込み、そして、渾身のスマッシュを、叩き込んできた!
(――今だ!)
俺はそれに対し、ドライブで応戦しない。
それまで大きく振っていた、ラケットの動きを、一瞬で、殺す。
そして、その全身の力を抜き、コンパクトなモーションで、ボールの下を、鋭く切った!
しおりの、ストップを真似した、一球!
市ノ瀬は、強打を読んで、後ろに下がっていた。
その、彼の予測を、俺のこの試合で、初めて見せた変化技が、完全に裏切ったのだ。
彼は、慌てて前に駆け込む。
だが、もう遅い。
ボールは、ネットの白線の上を、するりと越え、そして、彼のコートの、その中央に、ぽとりと、落ちた。
彼は虚を突かれ、失点する。
猛 18 - 16 市ノ瀬
「うぉぉぉりゃあああああああああっ!!」
俺は、天に向かって、雄叫びを上げた。
勝った。
俺たちが、勝ったんだ。
俺は、観客席で、涙を流して喜んでくれる、仲間たちの元へと、走り出した。
俺たちの、長い長い戦いが、今最高の、形で、幕を閉じたのだ。