心が折れる音
…畳み掛ける。
私は、静かに次の相手のサーブを待った。
高橋選手の手から放たれたボールは、先ほどまでの鋭さをわずかに欠いていた。
回転は依然として厄介だが、その瞳の奥にかすかな動揺が見える。
彼女の強気な精神が、私の予期せぬ一撃によって揺らいでいる証拠だ。サーブは私のバックサイドへ、やや甘く入ってきた。
…まだ前のドライブの残像が、彼女の頭を支配している。ならば、ここは!
私は、先ほど見せた豪快なフォアハンドドライブのフォームに入るかのような、ほんのわずかな予備動作を入れた。
高橋選手の肩が、ビクッと反応する。彼女の意識は、再び来るであろう強打に集中している。
しかし、私が選択したのは、力ではない。
インパクトの瞬間、私は手首を柔らかく使い、ボールの側面を薄く捉える。
裏ソフトのラバーが、ボールに強烈な横回転を与えながら、しかし、ふわりと短い、ネット際に落ちるフリックを放った。
「!」
高橋選手は、強打を警戒して後方に下がりかけていた体勢から、慌てて前進しようとする。
しかし、先ほどの強打と、このあまりにも対照的な軟打。
その緩急とコースの変化に、彼女の足が完全にもつれた。
「…くっ!」
苦し紛れに伸ばした彼女のラケットは、ボールにかろうじて触れたものの、コントロールできない。
力なく浮いたボールは、ネットを越えることなく、彼女自身のコートにポトリと落ちた。
静寂 3 - 3 高橋
「…また、だ。今度は、あのパワーショットを囮にしたのか…?」
観客席からの声が、先ほどとは質の異なる驚きを含んで響く。
パワーだけではない、戦術の幅。それが、今の私の一打に凝縮されていた。
部長は、今度はタオルを落とさなかったが、代わりに深い溜息をつき、そしてどこか楽しそうに口元を歪めた。
「…なるほどな。ただ俺の真似をするだけじゃ終わらん、と。自分の『異端』を、さらに厄介なものに進化させやがったか、静寂…!」
高橋選手は、ラケットを握りしめ、唇を噛んでいる。彼女の表情からは、先ほどの呆然とした様子は消え、代わりに悔しさと、そして新たな闘志のようなものが微かに見え始めていた。
まだ混乱は残っているだろう。しかし、このままでは終われないというプライドが、彼女を奮い立たせようとしているのかもしれない。
…そうこなくっちゃ。その強気な精神、もっと揺さぶってやる。
私は、再び静かに構える。次のポイントで、このゲームの流れを完全に引き寄せる。私の「異端」な進化は、まだ止まらない。
サーブ権は私。
高橋選手は、先ほどのポイントの悔しさを押し殺すように、鋭い視線でこちらを見据えている。
彼女の集中力は途切れていない。むしろ、ここからが正念場だと、その全身が語っているようだ。
ならば、こちらも真っ向から、私の「異端」で応えるまで。
私は、ボールを高くトスした。
体育館の照明を背負うようにして落下してくるボール。
それは、以前、彼女が戸惑った、あの回転量の多い、しかし一見するとナックルにも見えるサーブ。
(回転の判別が難しいのは、あなただけじゃない。部長でさえ、時々読み間違える…!)
ラケットの面を僅かに調整し、インパクトの瞬間、ボールの底に近い部分を、下から上に擦り上げるのではなく、ほんのわずかに横に滑らせるようにして押し出す。
強烈な下回転をかけつつも、打球の軌道は直線的に近く、そして短い。
高橋選手は、今度こそ惑わされまいと、ボールの回転を必死に見極めようとしている。
そして、意を決したように一歩踏み込み、バックハンドで払うようにしてレシーブしてきた。強気な選択だ。しかし――
……甘いっ!
私の声にならない声が、心の中で響く。
彼女のラケットに当たったボールは、まるで意志を持っているかのように、予期せぬ方向へ、ポーンと高く浮き上がった。
下回転を読み違え、ラケットの面が上を向いてしまったのだ。
チャンスボール。
私は、その甘い浮き球を見逃さない。素早くフォアサイドに回り込み、先ほどまでのトリッキーなプレーとは打って変わって、シンプルかつ強烈なスマッシュを、高橋選手のいないバックサイドへと叩き込んだ!
パチンッ!
乾いた打球音が、体育館に響き渡る。ボールは、高橋選手が反応するよりも速く、コートに深々と突き刺さった。
静寂 4 - 3 高橋
「…また、あのサーブか!分かっていても、まともに返せないのか…!」
「いや、今のレシーブは悪くなかったはずだ。それでも、あんなに浮くなんて…静寂選手の回転、やっぱり尋常じゃない…!」
観客席が再びどよめく。
高橋選手は、天を仰ぎ、小さく息を吐いた。
その表情には、苛立ちと、そしてどこか信じられないといった色が混じっている。
自分の得意なバックハンドでのレシーブが、こうもあっさりと打ち破られたのだから。
あかねさんは、ノートにペンを走らせながらも、興奮を隠せない様子で小さくガッツポーズをしている。
「しおりさん、完全に流れを掴んでる…!サーブで崩して、スマッシュで決めるなんて、まるで王道と異端の融合…!」
部長は、腕を組んだまま、静かに試合を見つめている。
彼の口元には、先ほどよりもさらに深い笑みが浮かんでいた。
「フッ…あのサーブの質も上がってやがるな。ただ変化させるだけじゃない。相手の心理を読み、最も効果的なサーブを、最も効果的なタイミングで使う。静寂、お前は一体どこまで行く気だ…?」
私の内なる闘志は、静かに、しかし確実に燃え上がっていた。
部長の言葉が、まるで追い風のように私の背中を押す。
…勝つ、必ず。勝利のために、異端へと堕ちたのだから。
私は、次のサーブのために、再びボールを手に取った。
リードは奪った。だが、油断はない。
この一点のリードを、絶対的なものにするために。そして、彼女の心を、完全にこちらへ引き寄せるために。
高橋選手…あなたの得意なサーブ、何度も受けて、その軌道、回転、タイミング…全て、私の目に焼き付いている
私の脳裏に、試合序盤、高橋選手が放ったあの鋭いサーブが再生される。
私のフォア側へ、低く、速く、そして強い横下回転がかかった、彼女の得意とするサーブ。彼女が最も信頼し、武器としてきた一撃。
…それを、今、ここで…あなたの目の前で、私が使う
観客席のどよめきも、部長の視線も、今は意識の外。
私の全ての集中は、目の前の相手、高橋選手と、これから私が放つ一球に向けられていた。
私は、構えた。
その瞬間、高橋選手の目が、わずかに見開かれた。
私の構え、ボールの持ち方、そしてトスの上げ方。
それは、紛れもなく、彼女自身のサーブのルーティンそのものだったからだ。
「まさか…」
高橋選手の唇から、か細い声が漏れるのが見えた。動揺が、その表情にありありと浮かんでいる。
私は、躊躇しない。
トスを上げ、体をしならせ、ラケットを振り抜く。
放たれたボールは、高橋選手が数分前に私に放ったサーブと寸分違わぬ軌道を描き、彼女のフォア側へ、低く、速く、そして強烈な横下回転を伴って突き刺さった!
ザシュッ!
それは、完璧な模倣。いや、彼女のサーブのデータを元に、私の身体能力で最適化した、ある意味では本家を超えるかもしれない一撃。
高橋選手は、そのサーブに対し、反射的にラケットを出そうとした。
身体が覚えている、自分のサーブへの対応。しかし、それは「自分が打ったサーブではない」という混乱と、「相手が自分の得意技を使っている」という強烈な違和感によって、コンマ数秒、反応が遅れた。
そして、その遅れは致命的だった。
彼女のラケットは、ボールの勢いと回転に完全に負け、まともなレシーブをすることができない。ボールはラケットのフレームに当たり、力なく横へと大きく逸れていった。
静寂 5 - 3 高橋
エース。彼女自身の得意なサーブで、彼女から奪ったエース。
体育館が、先ほどまでとは異なる、異様な静寂に包まれた。誰もが、今起きたことの意味を理解しようとしているかのようだった。
高橋選手は、その場に立ち尽くしていた。ラケットを握りしめたまま、うつむき、顔を上げない。肩が、小さく震えているように見えた。彼女の得意なサーブ。
彼女のプライド。それが、目の前で、自分以外の人間によって完璧に再現され、そして自分自身を打ち破った。
それは、単なる失点以上のダメージを彼女に与えたはずだ。自分の絶対的な武器が、いとも簡単に他人に奪われ、自分に向けられたという事実は、彼女の心の最も深い部分を抉るように打ちのめしただろう。
「…うそ…だろ…あんな…あんなことって…」
「相手の得意なサーブを、そっくりそのまま…しかも、今の、本家よりエグくなかったか…?」
控え場所の選手たちも、言葉を失っている。
部長は、組んでいた腕をほどき、険しい表情で私を見つめていた。その目には、驚きと、そしてある種の畏怖のような色さえ浮かんでいる。
「静寂…お前は、鬼か…?そこまでして、相手の心を折りに行くとはな…」
三島あかねさんのペンは、完全に止まっていた。ノートには、おそらく何一つ書かれていないだろう。ただ、彼女は震える手で口元を覆っている。
高橋選手の瞳からは、明らかに光が失われ始めていた。
先ほどまで見えていた闘志の炎は、まるで強風に吹き消される寸前の蝋燭のように、か弱く揺らいでいる。膝が、がくりと折れそうになるのを、必死で堪えているように見えた。
…これで、終わりにはしない。全ては勝利のために
私は、表情を変えることなく、静かに次のポイントの準備を始めた。
彼女の心が折れる音を、確かに聞いた気がした。




