小笠原 凛月 (5)
私の本当の死闘は、まだ終わらない。
それどころか、さらに深い迷宮へと、足を踏み入れてしまったようだった。
そこからの試合は、もはや私の理解を、超えていた。
私がドライブを打てば、彼女は、アンチラバーでその回転を殺し、そして逆に、アンチラバーで、ドライブを放ってくる。
そのナックルドライブは、私の予測の全てを裏切る、異質な弾道。
台上で、勝負を仕掛ければ、彼女は、多種多様なストップの、回転で私を翻弄する。
下回転、横回転、そしてナックル。
その全てが、同じモーションから繰り出される。
(…おかしい。アンチラバーは本来、守備的に戦うプレイヤーが、使うもののはずだ。なのに、彼女の卓球は、あまりにも、攻撃性が高い)
そして私が、なんとかその変化に食らいつき、カウンターを狙っても、彼女のそのアンチラバーは、まるで、鉄壁の盾のように、私の攻撃をいなし、そして、逆に鋭い速攻へと、転じてくる。
堅守速攻。
いや、それすらも生ぬるい。
これはもはや、守備ではない。
相手の力を利用し、そして、増幅させて返す、カウンターの真髄だ。
極めつけは、彼女のサーブ。
あの、超低空のナックルサーブが、同じテイクバックのモーションから、次々と放たれてくる。
下回転、ナックル、横下回転。
ショートと、ロング。
その全ての組み合わせが、私の思考を、飽和させていく。
(…もしかしたら、見せてないだけで、横回転のサーブも来るかもしれない)
そのプレッシャーが、私のレシーブの精度を、確実に奪っていく。
スコアは、無情に離れていく。
6-11。
第二セットも、終わった。
私は、またしても、彼女に敗れた。
だが。
私の、心は折れてはいなかった。
むしろ、その逆。
私の、全身の細胞が、歓喜に打ち震えていた。
(…静寂しおり。あなたは最高だ)
その、底知れない引き出しの多さ。
その常識を覆す、戦術。
その全てが、私を奮い立たせる。
私は、ラケットを強く、握り直した。
そしてネットの向こう側で、相変わらず無表情のまま、こちらを見ている、魔女を睨みつけた。
私の、本当の、反撃は、ここから、始まるのだ。
インターバル。
私はベンチへと戻り、タオルで、顔の汗を拭った。
隣で、コーチが厳しい表情で、腕を組んでいる。
「あの、静寂しおりという選手…。彼女の引き出しの、多さは異常だ。我々の、予測を、遥かに超えている。…おそらく、あれでもまだ、全てではない。まだ、隠しているものがあるだろう」
その言葉に、私は静かに頷いた。
そうだ。
私も、そう感じていた。
彼女のその、底知れない才能。
それはまるで、どこまでも続く、深淵のようだった。
「…コーチ。どうすれば、勝てますか」
私の、その問いに、コーチはしばらく黙り込んだ。
そして彼は、一つの結論を、口にした。
それは、私たちがこれまで避けてきた、最もシンプルで、そして、最も、過酷な戦術。
「…もう小手先の戦術では勝てん。彼女は小柄だ、恐らく体力もない、勝つには、ロングへの打ち合いに持ち込み、お前のその体格差と、打球の力の差、そして体力の差で、ねじ伏せるしかないかもしれん」
「だが、それは賭けだ。彼女のあの粘りを、お前が上回れるかどうか…」
彼の、その言葉。
それは私が、この試合で、相手の方が、完全に卓球の技術が、上だと認める、ということ。
その事実に、私の胸には、敬意と悔しさ、そのどちらもが、同時に込み上げてきた。
「…やります」
私は、言った。
「それしか道が、ないのなら。私は、私の全てを懸けて、彼女に挑みます」
「…そうか」
コーチは、静かに頷いた。
そして、彼は続けた。
「凛月。次のセット、タイムアウトはなしでいく。 とにかく相手を休ませるな、打ち合いも、フォアとバックに揺さぶりを入れていけ」
「はい」
私は、ラケットを強く、握り直した。
そして、ふと思う。
(…静寂しおり。あなたは一体、どんな人間なんだろう)
(どうして、あんな卓球が、できるんだろう)
(もっと、知りたい。あなたのことを)
その時私の心の中に、ほんのわずかに、友達になりたいという、不思議な感情が、芽生えた気がした。
だが今は、そんな感傷に浸っている場合ではない。
目の前には、倒すべき最強の敵がいる。
インターバル終了を告げる、ブザーが鳴り響く。
私は立ち上がり、コートへと向かう。
その瞳には、もう迷いはない。
ただ、勝利への、純粋な渇望だけが、炎のように燃え盛っていた。