小笠原 凛月 (2)
小笠原 0 - 1 静寂
私は、呆然と立ち尽くしていた。
ネットの向こう側で、静寂は、相変わらず無表情のまま、こちらを見ている。この静かな瞳の奥で、彼女が静かに笑っているような、気がした。
(…面白い。私の新しい「対話」に、あなたはどう答えてくれますか?)と。
私の全身に、悪寒が走る。
この女は、魔女だ。
私の常識も、理論も、全てが通用しない、本物の魔女なのだと。
私の本当の死闘は、今まさに、始まったばかりだった。
サーブ権はまだ私にある。二本目。
私は一度、深く息を吸い込み、思考をクリアにする。
(…落ち着け、私。今の現象はありえない。アンチラバーは、回転を殺すもの。回転が、そのまま返ってくるなど、物理的に不可能なはずだ。何か見落としている。何か、私がまだ知らない、仕掛けがある)
私は、今度はサーブの回転を、変えた。
横回転ではなく、純粋な下回転。コースも彼女のバックサイド深くへと、コントロールする。
ラリーに持ち込み、もう一度、あの不可解な現象を、観測する。
彼女は、そのサーブに対し、またしても、あの黒いアンチラバーの面を見せつけ、そして、氷の上を滑らせるかのように、ラケットをスライドさせた。
ボールは、私のコートへと返ってくる。
その軌道は、やはりおかしい。
下回転が死んでいる。ナックルだ。だが、それだけではない。ボールが、不規則に、微かに揺れている。
私は、そのボールに対し、ドライブで応戦する。
だが、私のラケットに当たった瞬間。
ボールは、私の予測とは、全く違う方向へと、力なく弾かれた。
ネットに、かかる。
小笠原 0 - 2 静寂
「………っ」
私は、歯を、食いしばる。
分からない。
何が、起きているのか、全く分からない。
私の、長年の経験とデータが、目の前の、この少女の前では、全く意味をなさない。
サーブ権が、彼女に移る。
彼女は、大きなテイクバックから、サーブを放ってきた。
私はもう、モーションには惑わされない。ボールそのものに集中する。
だが、彼女が繰り出すサーブは、そのどれもが、私の思考の範疇を、超えていた。
下回転、ナックル、ロング、ショート。
そして、その全てが、同じフォームから放たれる。
私はただ、その幻惑のサーブに翻弄され、そして、ポイントを失い続けた。
小笠原 2 - 7 静寂
(…ダメだ。このままでは、一方的に、殺される…!)
私は、思考を切り替える。
もう彼女の変化を、読むのはやめた。
そんなものは、無意味だ。
私がすべきことは、ただ一つ。
私の卓球を、信じること。
私の戦い方を、貫き通すこと。
私は、彼女のサーブに対し、レシーブで、無理やりにでも、ラリーへと持ち込んだ。
甘いボールでは、弾かれて、私のオープンスペースに弾かれて終わりだ。
そして、なんとかそこから、私の得意なドライブの、応酬へと引きずり込む。
一球一球、私の全ての力を込めて、ボールを叩きつける。
彼女はそれを、時に裏ソフトで受け止め、時にアンチラバーで、いなしてくる。
そのラリーの中で、私は必死に、彼女のラケットの動きを、観察した。
そして、気づいたのだ。
(…持ち替えている…!)
ラリーの中で、彼女は、相手には認識できないほどの速さと、悟らせないほどの自然さで、ラケットを反転させている。
フォアに来たボールをアンチでブロックし、バックに来たボールを、裏ソフトでドライブする。
その逆も、また然り。
彼女はその二つの、全く異なる、性質のラバーを、まるで、自分の手足のように、自在に操っているのだ。
(…これか。これこそが「予測不能の魔女」の、正体…!)
だが、タネが分かっても、対応できるものではない。
その、あまりにも高速な持ち替えと、そして、そこから生まれる、無限のコンビネーション。
私の思考は、常に彼女の後手に回ってしまう。
それでも、私は食らいついた。
一点、また一点と、必死に奪い返す。
私の意地とプライド、その全てを懸けて。
小笠原 7 - 10 静寂
セットポイント、静寂。
だが、私の心は、まだ折れてはいない。
むしろ、燃え上がっていた。
この、難解なパズルを、解いてみたいと。
この、魔女の化けの皮を、剥がしてみたいと。
第一セット、最後のラリー。
それは、このセットで、最も長く、そして、最も濃密なものだった。
私が、ドライブを打てば、彼女はアンチで殺す。
私が、ストップで揺さぶれば、彼女はチキータで、カウンターを狙う。
思考と技術の、全てが交錯する。
そして、その、長い長い、ラリーの果て。
彼女が放った、一球。
それは、私が全く予測していなかった、彼女の「魔術」だった。
ドライブのモーションから放たれる、しかし、一切の回転を持たない、ナックルドライブ。
私の体が、反応できない。
ラケットは虚しく、空を切った。
小笠原 7 - 11 静寂
第一セットは終わった。
私は、負けた。
だが、その表情には、悔しさよりも、むしろ興奮と、そして、次なる戦いへの、闘志が燃え盛っていた。
(…静寂しおり。面白い)
(あなたのその魔術。次のセットで、必ず見破ってみせる)
私は、不敵に笑った。
この試合は、まだ始まったばかりなのだから。
私の、本当の死闘は、ここから始まる。