氷の解剖医
セットカウント部長 0 - 2 神宮寺
第三セット スコア 部長 2 - 8 神宮寺
(…くそっ…!くそっ!くそっ!)
俺は、心の中で、何度も悪態をついていた。
息が上がる。
汗が、滝のように流れる。
なのに、ネットの向こう側に立つ、あの、神宮寺という男は、涼しい顔で、汗一つかいていない。
まるで他人事のように、ただ静かに、そこに立っている。
こいつの、卓球は異常だ。
速いわけじゃ、ない。
重いわけでも、ない。
なのに、俺の体は、鉛のように重い。
俺のラケットは、空を切るばかり。
俺がパワーを込めて、ドライブを打とうとすれば、その前に、ネット際に、ぽとりとボールを落とされる。
俺が繋ごうとすれば、台の角、ギリギリをえぐるような、いやらしいコースを、突いてくる。
俺の得意な、パワープレーを、させてもらえない。
俺の土俵で、戦わせてもらえない。
ポイントを取っても、表情一つ変えやしねえ。
逆に、俺がポイントを取れば、わざとゆっくりと、間を取り俺のその、燃え上がった闘志の炎を、強制的に冷ましにきやがる。
リズムも思考も全て、あいつの手のひらの上で、踊らされている。
まるで精密な機械に、じわじわと解剖されているかのような、屈辱。
(…もう、ダメか…)
心が、折れかけていた。
何を、しても通用しない。
何を、しても読まれている。
その、絶対的な絶望感の中で、俺は、無意識のうちに、観客席を、見ていた。
仲間たちの、顔。
心配そうに、俺を、見つめる、未来。
そして。
(…しおり…)
彼女は静かに、こちらを見ていた。
その瞳には、いつもの氷のような、光が宿っている。
その瞳を見た瞬間。
俺の頭の中で、何かが弾けた。
(…そうだ。俺は今まで、力と根性で戦ってきた。だが、あいつ…しおりなら、この状況をどう『分析』する…?)
俺の思考が、切り替わる。
熱くなるな。
考えろ。
あいつの卓球を、観察しろ。
あいつの弱点は、どこだ。
(…弱点?ねえよ、あんな機械に)
(いや違う。どんな完璧な機械にも、必ずバグは、あるはずだ)
(あいつの予測は完璧すぎる。それはつまりあいつの、データベースとやらにない動きをすれば、エラーを起こす可能性がある、ということじゃねえのか?)
前にしおりが俺に言ってきたことを思い出す
(あなたの卓球は、読みやすいし返しやすい、しかしその泥臭い粘りと諦めない心、その二つにおいては、私の予測を凌駕することがあります)
俺は、吹っ切れた。
格好なんて、どうでもいい。
プライドも、何も捨ててやる。
ただ、勝つ。
あいつらの、ために。
次の、ラリー。
神宮寺の緩い、ナックル性のボールが、俺のフォアへと飛んでくる。
いつもの俺なら、それを無理やりにでも、ドライブで打ち返していた。
だが、今の俺は、違う。
俺はそのボールに対し、ラケットを振らない。
ただ山なりの回転も、スピードもない「ただ、入れるだけ」の、素人のような返球を、台の真ん中に、高くふわりと返した。
それはあまりにも、非合理的な、一球。
その、瞬間だった。
ネットの向こう側で、神宮寺のその、完璧なポーカーフェイスが、ほんのわずかに、初めて歪んだのを、俺は、見逃さなかった。
彼の思考ルーチンが、予期せぬエラーに直面したのだ。
彼の体は、俺の次の強打を、予測していたのだろう。その動きが、コンマ数秒固まる。
その彼の、僅かな動揺。
そして観客席から、聞こえてきた、仲間たちの、声援。
「いけー!部長ー!」
その声が、俺の心の奥底に残っていた、最後の闘志の、炎に、再び火をつけた。
(そうだ、格好なんて、どうでもいい!俺は、あいつらのために、絶対に負けられねえんだ!)
バグを起こした、精密機械。
それに対し、魂を取り戻した野獣が、再び牙を剥く。
次の、神宮寺の、返球は、何かを疑いながらも、渾身のスマッシュを放つ。
俺は、そのボールへと飛び付くように、一歩深く踏み込み、そして、これまでの鬱憤を、全て晴らすかのように、渾身のフォアハンドスマッシュを、カウンター気味に叩き込んだ!
部長 3 - 8 神宮寺
一点。
たかが、一点。
だが、その一点は、この試合の流れを、完全に変える、奇跡の始まりの一点だった。
俺の、大逆転劇が、今、幕を開けたのだ。